「ヨーロッパ文化」講義録注釈

注釈その1(第1講〜第5講) 注釈その2(第6講〜第10講) 第11講 第12講 第13講 第14講 第15講

第11講

『大文字の物語とか大きな物語』
 
リオタールは『ポスト・モダンの条件(1979)(水声社1986年小林康夫訳)で近代の理念や理想を「大文字の物語」と規定し、現代を「大文字の物語」が失われた時代と言っている。フランス人リオタールの発想が世界的に広がり、一般に80年代をポスト・モダニズムの時代と呼ぶようになった。しかし英国のイーグルトンは『ポスト・モダンの幻想(1996)(森田典正訳/大月書店)で、ポスト・モダニズムの功績を評価しながらも、普遍に対し差異を、中心に対し終焉を強調するポスト・モダニズムを批判している。(『ポスト・モダンの幻想』37頁より。「ポスト・モダニズムの最大の功績は、セクシュアリティ、ジェンダー、エスニスィティの諸問題を政治的議論としてしっかり定着させたことであった」)

『美にして崇高なるもの』
 第6回の講義でビクトル・ユゴーの『クロムウェル(1827)』序文と『エルナニ(1830)』がフランスでの代表的なロマン主義運動の先駆であることに触れた。40年代はまだロマン主義の延長上にあり、ロシア史では理想主義もしくは美の時代と呼ばれていた。

『具体的な産物、ひいては共産主義のシンボル』
 一例は共産主義時代のモスクワのヴェーデンハー展示場の例。かつての農産物展示館などがそうだが、ペレストロイカの時代には「農産物展示館」と表示された館に日本の電気製品が展示されていた。

『エドゥワールの文学論』
 「どんなに束縛を脱しているかに見えるロシアの小説ですら現実に『似る』ことにとらわれている。ギリシャ悲劇や17世紀フランス悲劇のような人生からの離脱が必要。あれらの作品こそ深く人間的で、深く人間的に見えることを鼻にかけない。一個の芸術作品に留まっているのです。」251頁

『ストゥルヴィイルーの文学観』
 「過去を全部ふるい落とさない限り」「もったいぶった韻律,耳さわりのいい抒情的なきまり文句の背後に臭いものがある」「絵画があれほど進んでいるのに、なぜ文学があれほどにあとにとり残されたのか」「りっぱな主題が今ではお笑い草だ。画家は、似ないでもいいという条件でなければ、肖像画一枚描こうとしない」「非論理のために尽くすのだ。雑誌の名は『清掃者』」446頁
 「作品の主題は現実が主人公に提供するところのものと、かれ自身がその現実から作りだそうとするところのものとの間の闘争です」「主人公の作家はそこから遠ざかりたいと思うでしょうが、私はたえず彼を引き戻そうと思っています。現実によって提出された事実と観念的現実との間の闘争」文学についての小説。小説を書き進める経過でのメモや批評や感想。254〜255頁

『注釈無理解な態度を示した』
 チューリヒからパリにきたトリスタン・ツァラらダダ運動に対し、ジッドは「外国人、ユダヤ人」呼ばわり、否定的な態度を示している。(ジッド「ダダ」「ユリイカ/1981.5」)

『「大文字の物語」が欠けていることを自認している』
 1895年、親しかった大出版社社長スヴォーリンへの手紙でチェーホフはこう書いている。「我々には近い目的も遠い目的もありません。腹の中は球でも転がせそうな空虚です。政治を信じない、革命も信じない、神をも持たない・ここを埋める・・しかし60年代の思想というような他人のぼろで隠そうとしないくらには賢明です。この病気は我々の知らぬ良い目的をもち、いたずらに送られたものではないからです。」(1892.11.25)

『丸山圭三郎』
 「ソシュールは共時言語学と通時言語学をはっきり分けることを強調し、歴史における合目的性・法則性を否定した」(丸山圭三郎著『ソシュールを読む』157〜159頁)
 さらに丸山圭三郎には岩波書店『ソシュールの思想』がある。脱構築思想のデリダが用いる「差異differance」というタームを、初めて言語学で提示したのもソシュールである。

『デリダ』
 「脱構築」「脱構築」などの意味について手早く理解した人は、ひとまず『岩波哲学思想事典』や弘文堂『フランス哲学・思想事典』などを参照し、それから個々の著書にとりかかるのも一案。

『ポスト・モダニズム』
 ポスト・モダニズムというタームは60年代の建築分野で生じたといわれる。デーヴィド・ハーヴェイの著作邦訳は吉原直樹監訳『ポスト・モダニティの条件』1990青木書店。
 従って、この本では建築と都市工学への展望から始まり、やがてポスト・モダニズムの時代といわれる現状をグローバルな文明論の対象とする。

『フランシス・フクヤマ「歴史の終焉」』
 三笠書房文庫。3巻本だが、特に第1巻がソ連ペレストロイカ以後の世界状況に触れていて面白い。第2巻以降では、今後の世界では人びとの「気概」が世界を動かすという、主観的な論理が展開される。

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第12講

『美の制度』
 
「美の制度」とは美術アカデミーや美術学校、美術館、美術の教授、批評家、美術ジャーナリズムなどの「制度」を指す。

『年譜上の初日』
 フーゴ・バルはチューリヒでの生活日記を『時代からの逃走』として発表している。邦訳書に訳者、土肥美夫作成の年譜があるが、フーゴ自身が2月5日の夕べについて記している。フーゴ・バルはニーチェやバクーニンに傾倒した時期があった。私が「年譜上」としたのは、ダダの真の精神はさらに後のトリスタン・ツァラの宣言によって始まるという見方があるので。

『一説では』
 塚原史『言葉のアヴァンギャルド』講談社現代新書90頁。

『「線状性」の限界をうち破ることにあった』
 塚原史『言葉のアヴァンギャルド』はこのパフォーマンスの意義を次のように強調している。ソシュールが言語の「線状性」を指摘しているように、人間の言葉は現在進行形で、複数の表現をおこなうことができない。それでツァラは言語の線状性を保ちながら、線の数を増やした。言語の意味の多重化をはかることで、言葉の固定観念への反抗を実験した。

『芸術領域を拡げることにも貢献した』
 マシュー・ゲール『ダダとシュルレアリスム』岩波書店58頁。

『キリスト教精神のルネサンスはオリエントから訪れる』
 フーゴ・バルは16年11月25日の日記で、こう書いている。

「キリスト教精神のルネサンスはオリエントから訪れる。我々の故郷である西欧は、それを嫌がっている。我々は心機一転してふたたびキリスト教徒になれるだろうか。むしろ、まるでロシア人が西欧の土台になりかねないかのようにさえ見える。ひょっとして、一種の相互交換ができるかもしれない。我々はロシア人からオーソドクシー(正統信仰)をうけつぎ、その代わりに、彼らに機機械をあたえる。そうなると、これまで受け身のロシア世界は、発砲し、人を殺し、罪を犯すよう強いられる。ロシアはけがれのない夢から西欧悪魔への転落を体験する。けがされる。しかしロシアはその後おそらく二倍もの力で立ち上がり、純粋さをとり戻すことを望むだろう」フーゴ・バル『時代からの逃走』土肥美夫訳/みすず書房

『面白い解釈』
 ハンス・リヒターはその著書『ダダ』で、ダダについて面白い解釈をしている。

「当時のわたしはいとも無造作にダダというわたしたちの運動の名が、スラヴ語のダー、ダーという生来陽気な肯定方式と、親密な関係をもっているようにうけとっていたいた。その上、この名をまったくぴったりだと思っていたのである。何ものもこの力づよく繰り返されるダー、ダーという人生肯定のそうだ、そうだ以上に、死の海にかこまれたあの生の島での、わたしたちの楽観主義、新しく獲得した精神の自由を、適切に表現することはできないだろう。」同書54頁。針生一郎訳/美術出版社

『ベルジャーエフ「ルネサンスの終わり」』

 「世界は意味を消失しました。・・人間は神々しい顔を喪失し、物質、偶然、集塊となりました。・・・機械が誕生して、個人にとって代わりました。・・・力はもはや一人ひとりの人間ではなく、数万の馬力によって測られるようになりました。タービン、ボイラー室、鉄工場、電気などが、力のバレエと亡霊を生みだし、それらがすべての都市や国全体を恐ろしい暴力のなかに包みこみました」

 フーゴ・バルによれば、アーチストとはその社会に拮抗しながら、時代全体の、新しい文化全体の先駆者であり、作品はその予言である。(以上、ベルジャーエフの発言とともに、『ユリイカ(1983年1月号)ロシア・アヴァンギャルド特集』川崎 浹「ロシア未来派とダダ」より)

『アンチピリン氏の宣言』
 ダダ宣言
「ダダは激しさだ。・・・ダダは弱々しさというヨーロッパ的枠組みにとどまっている。そいつはとにかくくだらぬことだ。ダダは誰のために存在するのでもない。ダダは狂気でも、知恵でも、皮肉でもない」

 50行の宣言の中でつぎの文章が最も「言説」性を帯びている。
「芸術は真面目なものじゃない。そいつはぼくが皆さんに保証する、そしてもし、もったいぶって換気扇というために、ぼくらが犯罪をお見せするなら、それは皆さんを楽しませるためだ」

「 ぼくらは宣言する。自動車が・・・その抽象作用の遅さにおいてぼくらをひどく甘やかしてきたと」
これはイタリア未来派に対する批判を内臓している。マリネッティが自動車好きで、自動車が未来派のシンボルだったから。

『ダダは何も意味しない』
 『ダダ宣言1918』から30年後、第二次世界大戦後の1947年に、トリスタン・ツァラはソルボンヌ大学で行った講演で、「ダダはタブラ・ラサの欲求から生じた」と語る。「タブラ・ラサ」とはマリネッティの未来派宣言でいわれた「現状一掃」という意味のラテン語である。彼らにとっての「現状」とは破壊と殺戮の戦争を含むすべての否定、一掃だった。(塚原史『言葉のアヴァンギャルド』より)

『西欧合理主義の一面性に限界を感じた』
 マシュー・ゲール『ダダとシュルレアリスム』岩波書店63〜64頁。64頁にハンス・アルプとマルセル・ヤンコの絵がある。

『ピカビア』
 ピカビアは父親がキューバ人、母親がフランス人。大使の子供で、資産家。13年ニューヨークで前衛運動を起こし、のちチューリヒでダダ活動に加わるが、ダダのアーチストの中で、パリに最初の衝撃をもたらしたのは、ピカビアである(1919年3月)。のちにシュルレアリトと連携、絵画と詩創作にたずさわる。ピカビアの絵は『ダダとシュルレアリスム』岩波書店82頁に掲載

『ハンス・アルプの絵』
 『偶然の法則によってつくられたコラージュ(1916)』が、マシュー・ゲール『ダダとシュルレアリスム』岩波書店62頁に掲載されている。

『「自動記述」の詩』
 「自動記述」の詩については塚原史『言葉のアヴァンギャルド』講談社現代新書151頁の仏語と邦訳の詩を参照のこと。

『後押しをしている』
 「ジッドはダダの本姓をあまり理解していない」とする巌谷国士の解説が有効。「ユリイカ(1981.5)ダダ・シュルレアリスム特集」15頁を参照。

『シャルシューヌ』
 これはロシアの未来派に属する著名なシェルシェネーヴィチの西欧での名だったと記憶する。再度マルコフの『ロシア未来派』を検討したい。シャルシューヌはパリでのダダ活動と影響を詳細に伝えたミシェル・サヌイエ『パリのダダ』(白水社1979)にも登場する。

『レディ・メードのオブジェ』
 「ダダやシュルレアリスムのオブジェは、 セザンヌからキュビスムをへて20世紀美術に台頭した物体への意識がはっきりと即物的な面であらわれたもの。シュルレアリストは意識下の領域の象徴としてオブジェをとらえた。デュシャンの『泉』と題された便器が、 レディ・メードの典型。デュシャンは自分が『泉』を自分の手でつくったかはどうでもよく、問題は彼がそれを「選んだ」ことにある。彼は生活の日常品をとりあげ、 新しい題名をつけることで、有用な意味をとり去って、オブジェとして提出した。つまり、ある物体に対する新しい思考をつくり出した」平凡社大百科(東野芳明による)

『ブラックユーモアの助けを借りる』
 アンドレ・ブルトン『シュルレアリスム芸術の発生と展望』(「ユリイカ(1991.12)」巖谷国士訳より)

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第13講

『言葉は人間をとりまくものとの闘いである』
 
「生きた言葉そのものは絶えることのない魔術である。私はみごとに創られた言葉(単語)によって、分析的な思考によるよりも深く現象の本質に浸透する。私は言葉に現象を従わせ、現象を征服する。生きた言葉の創造はつねに人間と、敵意をもつ自然・人間を取り巻くものとの闘いである。言葉は私を取り巻く闇への勝利の灯として光る。生きた言葉は人間の生存の条件である。」アンドレイ・ベールイ『言葉の魔術』

『マヤコフスキイ』(1893〜1930)
 1908年革命運動に従事して逮捕され二年投獄。出獄してから通った美術学校で、当時29歳のダヴィド・ブルリュークをからかい、皮肉を言い、にらみ合い、殴り合い寸前までなって、友人となる。そんな彼は古いものに対する同盟者となる。(マヤコフスキイ・ノート75〜76頁)
 
マヤコフスキイはある日、友人のブルリュークに自分の詩を口ずさむと「天才だ」と驚かれ、翌日からブルリュークがマヤコフスキイを天才詩人として紹介し宣伝した。10才年長のブルリュークは自分が天才マヤコフスキイを発見したのだと誇っている。マヤコフスキイは背丈の高い青年で、2カ国語ができたブルリュークがマヤコフスキイに情報をあたえ啓発した。まだ詩を二つしか書いておらず、しかもそれをどこにも発表していない十九歳のマヤコフスキイは、聴衆に向かって初めて自作を朗読し、詩と絵画の類似性を強調する講演を行い、「青年同盟」主催の展覧会にも出品、詩人、画家として、また新しい芸術の宣伝家として登場した。

『社会の趣味への平手打ち』
 以下の一節がある。

われわれの予期せぬ最初の新しい言葉を読む人々に。
 我々だけが我々の時代を代表する者である。言葉の技術でもって時代の角笛を吹き鳴らすのは我々である。過去は狭苦しい。アカデミーやプーシキンは象形文字よりもわかりにくい。
 プーシキン、ドストエフスキイ、トルストイ等々を現代の汽船からほうり出せ。
つぎのような詩人の権利を尊ぶことをわれわれは命令する。
(1) 自由に派生した言葉で辞書の語彙を増大させること。(言葉の新方法)
(2) 既成の言語を徹底的に憎悪すること。
(3) 諸君が風呂屋の箒で作った安物の栄冠を、恐怖をもってわれわれの誇り高き額からはらいのけること。
(4) 口笛と憤慨の海のただなかで、「われわれ」という言葉の塊の上に踏みとどまること。
 そうして、たとえわれわれの詩行に、諸君のいう「良識」や「よい趣味」などの不潔な刻印がいまだ残っているとしても、そこには、すでにそれ自体に目的のある「自由な」言葉の新しい未来の美の最初の稲妻が閃いているのだ。
 ダヴィド・ブルリユーク、アレクサンドル・クルチョーヌイフ、ウラジーミル・マヤコフスキイ、ヴィクトル・フレーブニコフ。モスクワ、一九一二年十二月

この文集には、「キューピズム」と題するダヴィド・ブルリュ−クの次の文も発表されている。
「咋日、われわれは芸術をもっていなかった。今日、われわれのところには芸術がある。昨日、芸術は手段であった。今日、芸術は目的となった。絵画は絵画的な課題のみを追求するようになった。絵画は自己のために生きはじめた。脂肪ぶとりのブルジョアは画家に対して恥すべき無関心な態度をとりつづけているが、この魔法使いにして妖術者である画家こそ、自己の芸術の秘密に立ち帰る可能性をもっている」(水野忠夫訳)

『超意味言語』
 ザウーミについては水野忠夫『マヤコフスキイノート』 122頁、および『ユリイカ(1983.1)/ロシア・アヴァンギャルド特集(執筆:川崎浹)』141〜143頁を参照。

『ロスタの窓』
 「ロスタの窓」とマヤコフスキイの関係については水野忠夫『マヤコフスキイ・ノート』257〜を参照のこと。

『ミステリア・ブッフ』
 水野忠夫『マヤコフスキイ・ノート』237頁〜を参照のこと。

『ニコライ・アセーエフ「極東の十月」』
 ニコライ・アセーエフ「極東の十月」は1920年4月4日にウラジオストークで生じた事件についてこうのべている。「日本人は、朝鮮人の蜂起を目論んでいたいたという理由で、町にいた人民革命軍の赤軍部隊を武装解除した。朝鮮人たちは朝、手を後ろ手に縛られ、白い長衣を着せられて町なかを巡洋艦に向けて連行さえていった。私は、その示威行動の日に新聞に掲載された自分の詩を今では覚えていない。」「創造」グループは群衆とともに、「日本の反革命スパイが近くにいる」ので、「憤怒を抑えた」反抗のデモを行った。

『1920年に来日』
 日本語の文献としては『ロシア・アヴァンギャルド』(国書刊行会)月報5に、来日の事実にふれた水沢勉の一文がある。 未来派については森鴎外が『すばる』で紹介しているとのこと。日本の未来派には西脇順三郎や滝口修造その他の評論家や詩人たちがいる。

『クルチョーヌイフの戯曲「太陽の征服」』
 『太陽の征服』は亀山郁夫訳でリプロポートから刊行され、舞台実演も行われた。これは、煙あり、爆竹ありの幼稚園児の学芸会のような印象をうけたが、役者や演出によっては全く異なる舞台になったかもしれない。いずれにしろ「太陽を征服しよう」というアヴァンギャルドの心意気をこそ買うべきである。

『秘密警察による謀殺』
 亀山郁夫『破滅のマヤコフスキイ』(302頁〜)には、ロシア・アヴァンギャルドのかつての重要なメンバーで、マヤコフスキイと親しかったリーリャ・ブリーク夫妻は実は秘密警察のエージェントで、マヤコフスキイの周辺には秘密の包囲網が仕掛けられていた、という説が紹介されている。 

『跳躍する』
 マレーヴィチ『立体主義、未来主義からシュプレマティズムへー新しい絵画のリアリズムへ』(『ロシア・アヴァンギャルド4』101頁〜)

『宇宙論視点があった』
 マレーヴィチ『神は見捨てられてはいない』(『ロシア・アヴァンギャルド4』所収。マレーヴィチ『シュプレマティズム』(『芸術倶楽部1974年1月号』)

『部屋が幾つもあった』
 八束はじめ著『ロシア・アヴァンギャルドの建築』では、タトリンの「第三インターナショナル記念塔」の設計図が具体的に示され、驚くべき斬新な意図がくみとれる。

『革新のヴィジョン』
 この点については中原祐介の『絵画とデザインのあいだ』(『美術手帖1982年2月号』)が分かりやすく、すぐれている。

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第14講

『フレーブニコフ』
 フレーブニコフについては主として亀山郁夫著『甦るフレーブニコフ』晶文社刊を参考にした。以下、「」内の文章は『甦るフレーブニコフ』からの引用

『オストラニェーニエ(=異化)』
 川崎浹『ロシア・フォルマリズム序論』現代思想132頁参照

『ザウーミ(=超意味言語)』
 せりか書房と現代思潮社の『ロシア・フォルマリズム論集』所収のクルチョーヌイフの論文を参照。
また、川崎浹「ロシア未来派とダダ」(『ユリイカ(1983年1月号) 特集ロシア・アヴァンギャルド』141頁)

『ロシア・フォルマリズム』
 後期シンボリストのベールイは「言葉の魔術」ですでに、詩的言語に対して、ロシア未来派或いはロシア・フォルマリズムの先取りともいうべき発言をしている。「生きた言葉そのものは絶えることのない魔術である。私はみごとに創られた言葉(単語)によって、分析的な思考によるよりも深く現象の本質に浸透する。...私は言葉に現象を従わせ、現象を征服する。生きた言葉の創造はつねに人間と敵意をもつ自然との、人間を取り巻くものとの闘いである。言葉は私を取り巻く闇への勝利の灯として光る。生きた言葉は人間の生存の条件である。」

言語研究サークル「オポヤーズ」成立当時の事情は省略。

授業ではロシア・アヴァンギャルドの図表で説明。

 「オポヤーズ」と青年シクロフスキイの出会いについてはシクロフスキイ『革命のペテルブルグ』水野忠夫訳/晶文社を参照。

フォルマリズム出現の二つの理由
 1. 芸術文学の表現形態の変化=未来派の出現
 2. 批評、文学研究の方法的自覚(『ロシア・フォルマリズム論集』現代思潮社424頁を参照)

1.の詳細
 A. 「芸術的感受性の拡大」シンボリズム
 B. 現象の流れの背後に隠れた超越的なイデアを見る

言葉と名称=「言葉は事物と直接結びつかず、事物の概念を示しているだけだが、だからといって言葉はその概念に記号としてかぶせられた音声というだけではない。しかし逆に人間が事物をより真実らしく表現しようという気持ちから、その概念に適した単語の音声をただ生理の法則に従って生み出すと規定するのも誤りだ。音声の出現と事物の概念の確立は弁証法的に重なりあって単語を生み出す」川崎浹「ロシアフォマリズム序論」『現代思想(1976年12月号) 特集20世紀思想史の試み』130頁下段を参照。

『バフチンの著作集は必読』
 『作者と主人公』(斉藤俊雄・佐々木寛訳)
 『小説の時空間』(北岡誠司訳)
 『小説の言葉』(伊東一郎訳)
 『叙事詩と小説』(川端香男里他訳)
 『言語と文化の記号論』(北岡誠司訳)
 『マルクス主義と言語の哲学』(北岡誠司訳)
 『フロイト主義生活の言葉と詩の言葉』(磯谷孝・斎藤俊雄訳)
 『ことば対話テキスト』(新谷敬三郎他訳)
など、いずれも有益な示唆に富む。ミハイル・バフチンはソ連時代には表に出ることがなかった。もしソ連が共産主義国家にならなかったと仮定すれば、バフチンは1930年代から現在進行形で世界の思想潮流に巨大なインパクトを与えていただろう。

『回想記』
 『ロシア・アヴァンギャルド2 演劇の十月』(国書刊行会)中のペトロフ「群衆劇」172〜78頁を参照。
また、岩田貴著『街頭のスペクタル』群像社の30頁も参照のこと。

『新レフ』
 『ロシア・アヴァンギャルド8 事実の文学』73頁を参照。

『エイゼンシュテインと非・劇映画』
 『ロシア・アヴァンギャルド8 事実の文学』71頁を参照。

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第15講

『ジゼル』
 貴族の青年アルブレヒトと田舎娘ジゼルの恋物語。アルブレヒトに恋人があることが分かって、ジゼルは落胆して死ぬ。墓場に花を捧げにきたアルブレヒトと従者が、あの世の処女使者が住む世界に引き込まれ、従者は死ぬが、アルブレヒトはジゼルの善意と愛で助かる。

『グラン・パ・ド・ドゥ』
 二人で踊り、最後に女の32回転と男の円周を描く大振りの踊りであるコーダが続く、クラシック・バレエの形式の一つ。

『最初の振付家となる』
 パリ公演でのバレエ・リュスは、振付家のフォーキンなしにありえなかった。小倉重雄『ディアギレフ』音楽之友社4頁参照。

『最初の頃』
 そのためにも資金やパトロンが必要だった。ディアギレフはパリで音楽協会の設立者と知己になり、会長でパリ随一のサロンの主、伯爵夫人に紹介された。ここには各国の国王、皇族、大臣、学者、詩人、音楽家たちが出入りしていた。夫人は最初ディアギレフを若いスノブ、いかがわしい山師だと思っていたが、壁に掛けられた絵の評価や自らピアノで最新のロシア曲を弾くに至って、ディアギレフのロシア音楽祭を後援することにきめた。

『大きな衝撃を与えた』
 バレエ・リュスの初演は大成功をおさめ、「観客席に火がついたような騒ぎ」になった。ジャン・コクトーは若くしてディアギレフとつきあい、ピカソをディアギレフに紹介したり、バレエ・リュスのために多くの台本を書いたりした。マルセル・プルーストもバレエ・リュスに夢中になった。コクトーは画家バクストの戯画を描き、プルーストは優雅なバレリーナ、カルサーヴィナをおずおずとエスコートし、社交界の王モンテスキュウ公爵は毎晩のようにイーダ・ルビンシュテイン(「シェラザード」アラビアンナイトの千一夜物語)を誘った。
 ジャン・コクトーも彼女に夢中になった。「クレオパトラ」1909をも演じたイーダ・ルビンシュテインについてはこう記されている。「 フォーキンとバクストが推したのは無名のイーダ・ルビンシュテインだったが、この場にこれほどうってつけの女優はいない。神秘的な容貌の美しさ、すらりとした足、幾分ボーイッシュな姿態、動きこそ少ないが、その妖しいまでに異国情緒をかんじさせる雰囲気、パリの観衆はかつて見ない官能の女優に興奮した。」藤野幸雄『春の祭典』(晶文社)103頁

『オリエンタリズム』
 サイード『オリエンタリズム』平凡社文庫、またオリエンタリズム一般については、当講義録「ヨーロッパ文化vol.20」で触れるので参照のこと。

『ニジンスキイ』
 ワツラフ・ニジンスキイ(1889〜1950)。ポーランド人。ロンドンで没。ダンサーとしての生命は1907〜1917年。バレエ・リュスの一員になったのは1909年。ニジンスキイの両親はダンサーで、父親のトマーシは跳躍がみごとだった。両親は別れ、母親が3人の子どもを育てた。ワツラフは母親の期待を裏切らずに、ペテルブルグの演劇学校に入り、経済的にも母親を救った。しかしニジンスキイはポーランド人で、背も低く、頬骨が出て顔立ちがアジア的だったためにヤポンチク(ジャップ)と呼ばれた。実技が抜群なので、卒業と同時に、プリマ・バレリーナ、ニコライ2世の愛人だったクシェンスカヤの相手に選ばれ、いちやくペテルブルグ社交界の寵児となった。
 ニジンスキイは父親に似て跳躍力がすばらしく、空中で足を10回打ち合わせるアントルシャ・ディスを非常に簡単にやってのけた。「空中で止まっていた」と証言する者もいた。一家を支える財政的援助のため、リヴォフ公爵のホモ・セクシュアルの対象にさせられ、つぎに『芸術世界』の刊行を終えて3年目のディアギレフの相手にされ、パリ公演中にディアギレフと同居するようになる。芳賀直子編「バレエ・リュス年表」(『ディアギレフのバレエ・リュス展』359頁)によると、1906年5月パリ公演中にニジンスキイが病気で倒れたので、ディアギレフが看病し、これを機会に二人は同居を始めたのだ。6月、パヴロワ、カルサーヴィナ、ニジンスキイ、グリゴリエフらがロシア本国の教育功労賞をうける。9月「マリインスキー劇場のシーズンが始まるためにバレエ団解散。ニジンスキイをはじめとするダンサーたちは休暇中にバレエ・リュスに雇われるという形をとっていたので、ロシアに戻らねばならなかった」
 だが24歳のとき、彼を慕って入団した23歳のバレリーナと突然結婚したので、ディアギレフは激怒して、ニジンスキイを解雇した。しかし米国公演の際、米国側がニジンスキイを要求したので、ディアギレフはふたたびニジンスキイを招いたので米国の観客は喜んび、ニジンスキイは相変わらずよく跳び、よく踊ったが、かつての神通力のようなものは無くしたといわれる。
 1918年ニジンスキイはスイスで精神病の診察をうけた。1928年ディアギレフがニジンスキイの混濁した意識を元に戻させようと、その時パリにいたニジンスキイを招いてカルサービナ演じる「ペトルーシカ」の舞台を見せたが、ニジンスキイはすでにカルサービナのことすらよく分からなかったらしい。精神病が治らぬまま、ロンドンで1950年に亡くなった。

『1923年初演のバレエ『結婚』の成立過程を巡って』
 日本ロシア文学会「関東支部報18」2000年10月1日発行。学会報告のレジュメ掲載。なお同報には中西圭子「『ペトルゥーシカ』と見せ物小屋」も収録されている照。

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