「ヨーロッパ文化」講義録注釈

注釈その1(第1講〜第5講) 第6講 第7講 第8講 第9講 第10講

第6講

『展開的』
 
 トルストイも『戦争と平和』の中で本筋から脇道にそれる文章を書いているが、『戦争と平和』の最後に自分の長い戦争論を一つの章として掲げた。小説『クロイツェル・ソナタ』でも性愛と理想の関係についてあと書きをつけ、これもまた小説と同じくらい評判になった。

『6月民衆暴動』
 
『レミゼラブル』の舞台。娘コゼットの恋人マリユスが参加。彼に恋するエポニーヌが身代わりになって死ぬ。ジャン、地下下水道でマリユスを救う。

『反デューリング論』
 うち三つの章を P.ラファルグが編んで《空想より科学への社会主義の発展》(1880) が成立。

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第7講

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第8講

『事件の発生』
 井桁貞義『ドストエフスキイ』清水書院112頁を参照。
 

『分離派教徒』
 
分離派教徒(ラスコリニキ)とは18世紀にニコン総主教によって行われた改革を受け入れず、旧式の伝統を守った一派。
 

『風景の虚無性』
 井桁貞義『ドストエフスキイ』清水書院138頁を参照。
 

『関係を示す図表』
 この一節は、江川卓『謎とき「罪と罰」』新潮社49〜50頁による。
 

『意味』
 大地へのラスコリニコフの接吻はキリスト教的というより、ロシアの農民伝来の母なる大地思想に基づく。(井桁貞義『ドストエフスキイ』清水書院130頁)
 

『フロイド「芸術論」』
 「ドストエフスキイと父親殺し」フロイド選集7・フロイド『芸術論』日本教文社327頁に所収。
 

『悪の自由』
 ルジャーエフ『ドストエフスキイの世界観』第3章「自由論」パンセ書院。または『ベルジャーエフ著作集2』白水社。
「強制された善はすでに善ではない。このような善は悪に変わっていく。唯一の善である自由な善とは、悪の自由を前提とする。ここに自由の悲劇がある。(中略) 悪の自由は自由そのものの壊滅をもたらし、悪い必然性に変わっていく。」
 

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第9講

『共苦』
 共苦については木下豊房の論文を参考。文集「ドストエフスキイ広場」No.8(1998)に収録。
 

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第10講

『ネチャーエフ』
 ルネ・カナック『ネチャーエフ』より。([]括弧内は該当ページ番号)

 ゲルツェンとチェルヌィシェフスキイの見解の相違:自由主義と急進的思想15頁。16頁「ニヒリスト」の理想主義的唯物論者=雑階級人(川崎註『赤と黒』ジュリアン・ソレルも雑階級人)。科学を信仰。

[18] 1861年保守的な人物が文部大臣に就任して、偏狭な文部政策を敷いたため(聴講生に入会金制度)貧乏な青年の間で不満が生じ、全国で抗議運動。1861年に農奴解放令が発布された。しかし農村における改革の不徹底。青年たちはさらに社会改革のための大きな動きを求めて前進。

[19] ゲルツェンとチェルヌィシェフスキイは『偉大なロシア人』という非合法雑誌をロンドンで印刷し、ロシアに持ち帰って配布させた。土地の無償分配、民衆議会の召集、国民投票による憲法作成など。一部に攻撃的で過激なパンフがあり多くの急進派からすら非難された。さらに当時の民衆すなわち農民が皇帝を信じていて、急進派を理解していなかった。

[21] チェルヌィシェフスキイと数人の仲間は秘密結社をつくった。「土地と自由」300人。パンフ「若きロシアに」が流布されると首都の間に動揺がおこり、同じ頃ペテルブルグや地方都市の行政庁の建物をふくむ大火が起こった。

[23] チェルヌィシェフスキイは獄中で『何をなすべきか』を書いて出版してのち、14年の強制労働とシベリアへの終身流刑。いやましに青年層の熱烈な指示をうける。

[24] 1866年カラコーゾフのアレクサンドル二世暗殺未遂事件。反動化

[25〜] 政治権力の倒壊だけを考え、「後は民衆が決定する」。偉大なるアナキスト、バクーニンのドイツ、イタリア、スイス遍歴。

[28] カラコーゾフ事件66年でバクーニンはロシアの青年を「若い新鮮な力」として讃えた。ヒロイズムや犠牲的精神を。68年のベルヌで開かれた会議でロシアの革命青年を4万ー8万とひどく楽天的に計算していた。

[35] ペテルブルグでのネチャーエフとベーラ・ザスーリチのひじょうに興味ある関係。ペテルブルグであたかも警察に逮捕され殺害されたかのようなメモをザスーリチに残し、噂をひろめ、1868年3月スイスのバクーニンを訪れる。[バクーニンの無神論、暴力革命、破壊後は民衆に任せる]

[31] 68年10月ネチャーエフ、ペテルブルグのあるサークルに初めて顔を出す。ペンキ屋で働いていた。

[32] ネチャーエフは70年2月19日を革命の日ときめていた。

[33〜34] 学生を信用せず、学生を社会からもぎとる必要がるという持論。陰険。嫌われ、詐欺師ではないかと疑われたが、自分自身の小グループでは完全な支配力をにぎっていた。
 

『悪霊』執筆に至るまでのロシア社会状勢
 ルネ・カナック『ネチャーエフ』より。([]括弧内は該当ページ番号)

 スイスのジュネーブで、忠告する者たちがいたにもかかわらず、バクーニンはネチャーエフの意志の強さと実行力をみこんで、偏愛し、二人で「革命カテキズム(教理)」[自分だけを信用し、目的のためには手段を選ばず、警官を含む支配階級は死刑]を作成し、バクーニンはネチャーエフに「ヨーロッパ革命家同盟ロシア支部の公認代表者」という証明書をわたした。1869年ネチャーエフはパブロフという偽名でモスクワに帰国し、バクーニンの証明書を水戸黄門の印籠のようにふりまわし、たちまち30人ほどの農業大学の学生を中心とする5人細胞組織「斧の会」をつくった。ネチャーエフはこうした秘密組織が各地に存在するかのように、またヨーロッパの中央委員会と結びついているかのようにふるまった。ネチャーエフの精力は同志を盲目的に自分に服従させることに費やされた。

[76] 1869年10月モスクワ大学の騒動。ネチャーエフ行動にでるが、やり方が過激なのでこれまでもいざこざのあった農業大学生のイワーノフが反対し、脱党した。

[80] イワーノフ殺害を決意。69年11月21日決行。

[89] 11月25日警察の家宅捜索(ネチャーエフが寄宿していたウスペンスキイの書店)。カテキズムを初め一切の書類押収される。26日イワーノフの死体発見。

[91] 直前にペテルブルグに発ったネチャーエフは、以前のペテルブルグでの言動(要塞監獄脱走など)が原因で、彼自身にとって不利な噂と冷遇しか見いだせなかった。また新グループが「農民は革命を望んでいない」という調査結果を得ていて、ネチャーエフの暴力革命論は的はずれであることになった。威信失墜。イワーノフ殺害の真相があばかれ、ネチャーエフに関係した者は敵も味方も全員逮捕され、2年前?の集会でネチャーエフに唆されて、単にある文書に署名した者たちも逮捕された。「若きニヒリスト」たちが首都と住民をひとまとめにして爆弾で吹っ飛ばすつもりだとの噂が流れた。この事件はヨーロッパでも報道され、当時つまり1869年12月ドレスデンではドストエフスキイが新聞でこの記事を熱心に読んでいた。すでに『悪霊』の構想が湧いていた。その間にネチャーエフは変装してドイツへ逃れた。ネチャーエフ事件の裁判は1871年(ナポレオン三世が退位して、ビクトル・ユゴーが帰国した頃)7月にペテルブルグで行われた。

[93] 87人の被告は政府にたいする厳しい不敵な態度をとり、青年層に深い影響をあたえた。ネチャーエヴィズムという言葉さえ生まれた。非人間的な革命の原理の誕生。

ジュネーブ、ロカルノでのバクーニンとネチャーエフと詩人オガリョフとの関係。ネチャーエフの嘘を第三者にばらされて、両者の決別。ネチャーエフと連れの青年は、バクーニンとオガリョフの書簡を盗んでフランスとロンドンへ。
 しかし、まもなく1870年ルイ・ナポレオンによる普仏戦争が始まり、第三共和政が始まり、プロシア軍に包囲されたパリにネチャーエフ観察におもむく。コンミューンの時機、セルビアの学生として下宿住まい。
 他方、帝政ロシアの警察のスパイがネチャーエフを逮捕するためにバクーニンに接近し、バクーニンに相当額の金をせびられ、しかもすっかり個人的に親しくなる。1872年8月14日、チューリヒ、インターナショナルのポーランド革命家の裏切りで、ネチャーエフ逮捕される。しかし、スイス政府は世論の反撃を恐れて、ロシア当局にネチャーエフの身柄を渡すことを延ばしていた。10月下旬に引き渡す。1873年1月8日、モスクワでネチャーエフ裁判。

[143] 20年の強制労働とシベリアでの終身流刑。

[147] アレクサンドル二世はこれを要塞監獄(政治犯のみ)の終身刑にきりかえた。スイス政府の「普通法犯人扱い」刑事犯扱い要求をも裏切ったことになる。
 

半科学
 日本の首相が発言した「わが国は神の国である」という発言を、シャートフの民族思想や日本の戦争中の「神」を念頭において考察すると、その意味が明らかになる。

「百姓の労働によって神を手にいれるのです」[11-253]
(では農業人口が少ない現代ではどうしたらいいのか、シャートフに聞きたい所だ)

 グローバルな現代政治社会の状況を「宗教と民族思想」の視点でみごとに解明したのが、一読の価値あるハンチントン『文明の衝突』鈴木主税訳/集英社(新書版ではなく、500頁の単行本)である。
 

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