60年代半ばにモスクワにシンセサイザー・スタジオが設置され、グバイドゥーリナやシュトケらが制作した。モスクワに滞在していた現代音楽の作曲家イタリアのノーノ(共産党員だったから訪ソできた)が、カレトニコフやシュニトケに大きな刺激をあたえた。日本でも松平頼暁を筆頭に若手はシェーンベルグやベリオの後につづき実験的な作曲を行っている。グバイドゥーリナの電子音楽を聴く。芸術文学様式の同時代性を説明。
タガンカ劇場『三人姉妹』の「モスクワ」への夢が、じつは「ソ連」への夢で、それが適わない夢だ、とリュビーモフは示している。(岩田貴『街頭のスペクタクル』230頁)
リュビーモフのインタビューで聞く:『三人姉妹』で床をたたく断続音。場面の急展開等は時間が継続しない現代思想・芸術の表現。現代音楽も音の調整的継続を行わない。非常に断続的である。19世紀の歴史主義や時間の継続的認識と異なる現代的時間の特徴。理念や目的意識といった、ポスト・モダンでいうところの「大文字の物語」が喪失する。フルシチョフの抑圧はあったが、いちどインストールされた自由化の装置は取り払われることがなかった。パステルナーク事件(ソロウーヒンらの弾劾)があり、ガーリチの『水夫の沈黙』が検閲で禁止されたり、トストノゴーノフ演出の『知恵の悲しみ』がフルシチョフから批判されたりしたが、ロシア演劇のスタイルやジャンルは多様化し、スターリン体制下で敷かれた一元的価値の支配体制が緩和されたことはまちがいなかった。「停滞の時代」の演劇活動の代表的存在がリュビーモフ。演出家の時代だった。フランスではすでにイヨネスコやベケットが現れていたのだから、ソ連演劇だけが社会主義賛歌の社会主義リアリズムですませられるわけがない。それは東独経由のブレヒトを通してやってきた。ブレヒトの受容を理解するためには、ソ連にいぜんあったロシア・アヴァンギャルドの演出家メイエルホリドのビオメハニカを理解しなければならない。心理主義のスタニスラフスキイに対するメイエルホリドの演劇性強調:身体運動の展開、見せ物小屋やサーカスコメディア・デラルテなどの要素。メイエルホリドを通してリュビーモフは「セチュアンの善人」を演出した。(教室ではメイエルホリドの舞台装置をOHPで見る)エルドマンの『自殺者』、ビソツキー死後の『詩人ウラジミル・ビソツキイ』などは検閲を考慮して、タガンカ劇場では自ら上演を断念した。岩田貴は演劇がペレストロイカの先駆けを行ったとする。ドストエフスキイの『白痴』、トルストイ『闇の力』、オストロフスキイの諸戯曲、ブルガーコフの『巨匠とマルガリータ』。トリーフォノフ『川岸の館』(1980)では、形式主義批判からコスモポリタニズム批判へと粛清の荒れ狂うスターリン時代の暗部を語った。しかし問題はそうした反イデオロギー的傾向と同時に演出の斬新さにあった。新しさの中にこそ同時代の傾向があり、それがインターナショナルであり、同時に反ソ連・保守的な運動だったのである。レストロイカ以前も以後も上演された。
タルコフスキイ監督作品『ぼくの村は戦場だった』『惑星ソラリス』(1972)。後者はスタニスワフ・レム原作。『ストーカー』
マヤーク:
マヤコフスキイ広場の集会若者たちの詩の朗読、ミーティング。官憲に解散させられる。シニャフスキイの幻想小説とフランスのアンチ・ロマンとの同時代性。マクシーモフ『創造の7日間』。亡命現象(第1次〜第3次)の紹介:74年の亡命
パリで創刊「コンチネント」誌の役割世界に読者をもつ詩人ブロツキイ(ノーベル文学賞)の代表作は『ベネツィア』『大理石』。ソ連時代「寄食者」として当局から非難されていた時期にアフマートワの支持をうけ、流刑後アフマートワらの協力でペテルブルグに戻ることができた。ブロツキイの詩は『世界の現代詩』集英社に収録。ユダヤ系ロシア人たちのフランスや米国への亡命。
オクジャワの詩歌について:
彼自身は彼の歌はシャンソンとは関係なく、「街のロマンス」というジャンルから影響をうけた」とのべている。当局は反体制活動とレッテルを貼りつける理由がみつからない。禁止はされないが、公認もされない。オクジャワは共産党員だったが微妙な位置にあった。彼の歌はパリで初めてレコードになった。フランスの共産党員がモスクワにきて、お土産になにかといわれて、「オクジャワのレコードを」と言った。モスクワのロシア共産党員はあわててパリからオクジャワの元のテープを取り寄せて再生してレコードを作り手渡した。しかしあわてていたので、ジャケットにオクジャワの従兄弟の写真をまちがえてのせてしまった、と。これはオクジャワ自身の話。ロシアの音楽と文学とのつながり:
マレービチの絵。ショスタコーヴィチとツヴェターエワ。グバイドゥーリナ(タタールスタン)とゲンナージ・アイギ(チュヴァシ民族)。アイギはさらにロシア・アヴァンギャルドの画家マレービチを作曲や詩であつかっている。作曲家シュニトケ、作家エロフェーエフ、詩人ツヴェターエワ(高山旭訳『ツヴェターエワ詩集 百年後のあなたへ』新読書社)。オクジャワの歌に出てくるプーシキン。トリーフォノフ『川岸の館』(1980)では、形式主義批判からコスモポリタニズム批判へと粛清の荒れ狂うスターリン時代の暗部を語った。しかし、問題はそうした反イデオロギー的傾向と同時に演出の斬新さにあった。新しさの中にこそ同時代の傾向があり、それがインターナショナルであり、同時に反ソ連・保守的な運動だったのである。ペレストロイカになって発表された新作としてはチンギス・アイトマートフの処刑台(1986)、アスターフィエフの『哀しい刑事』(1986・群像社より邦訳予定)で麻薬や犯罪、宗教問題などタブー視された題材をあつかって、読書界に衝撃をあたえ、世界的に有名になった。
SFの大家ストロガツキイ兄弟の作品『じぐざぐの運命』も初めて陽の目をあびた。『哀しい刑事』(1986)では顔が気に入らないからとの理由で次々に3人を刺殺したり、生年たちが刑事の叔母をレイプしたりで、当時のソ連の犯罪を活字にしたもの。21世紀を前にして今、20世紀とは何だったのかという視点から、過去の事象の読み替えが盛んに行われている。ゲニスの『60年代』もその一つなので、ここで紹介する。原文そのものが機知の利いた、また社会的背景を念頭におかないとわからない部分が多いが、ひとまず生硬な訳ながら、以下紹介する。
アレクサンドル・ゲニスの『60年代』からの抜粋
60年代の総括(60年代という名称の厳密な意味からいえば、56年から68年までを60年代と呼ぶ)。
歌やプラカードによれば「すばらしい生活」だった。スターリン時代が過ぎ去り次の喜びの柱を建てる時代だった。その出だしの象徴が宇宙飛行士ガガーリン少佐の世界初の宇宙船打ち上げだった。ソ連人たちは胸をはった。至る所でロシアの美、つまり北方の美が喧伝された。冬の美である。ロシアの美人はかならず毛皮コートを着ている。肯定的キャラクターは自分を冬の条件のなかに設定し、健康と勇気をアピールした。風俗も変わった。広告も派手になり、色鮮やかな風船をあげたり、あかるい色のコートを着せたりした。住居のインテリアも変わった。複数の壁紙で飾った。住居は要塞ではなく、人形の家になった。派手さは顔の表情に反映し、女性たちの行動も軽くなった。化粧品をみんなで使用して個人としての美の権利を強化した。勇気はレストランのメニューにも現れ「喜び」という名の料理があらわれた。こうした流れは芸術文化にも反映し、喜劇がどんな役割をはたすかが問題になった。喜劇は存在すべきだとの楽天的な結論がでた。ラジオもカセットもイデオロギー抜きの歌を流し、コピーするようになった。スースロフの「なにか愉快なこと」が流行った。保守主義者は「理由のない笑い」に不満をこぼしたが、この陽気なイデオロギーぬきの高笑いこそが自由を現すものだった。「陽気なものは必ず表層的で、不真面目で、軽いものだ」という、何世紀にもわたってはぐくまれた深い確信があり、これが全体的な笑いの伝統に対置されている。権力が真面目の側に立つのであれば、不真面目はなにより力として根こそぎにされた。стиляга<流行を模倣する若者>はコムソモール(共産青年同盟)やインスチトゥートから追放された。職場を追われ、街頭で頭を刈られ、舞台コンサートは廃止させられ、若者のクラブやコーヒー店は閉鎖された。喜劇はレパ−トリイやシナリオのプランから消された。
フルシチョフは実際笑いを好んだ。第22回党大会報告の「個人崇拝の結果の克服」の演目のときですら、20回からの「笑い」や「ホール内のざわめき」というト書きが記されている。それはレーニンの同じくレベルの低いものだったが、例えば「殴打битьеが意識を決定する」(бытье<存在>をもじったもの)という程度のもの。抑えた笑いがソ連全体の笑いに変わった。もし政府の指導者が国連の舞台で机を短靴で叩いて資本家たちに「ひどい目に合わせること」を示したとすれば、この国で抑制の取れた気ままな笑いが支配していたことが分かるだろう。
笑いと陽気とユーモアの有益な役割は疑いのないところである。長い年月において生活の両極端、悲劇と笑いは不十分な歪められた偽善的なものになっていた。以前は知られなかった極端な悲劇性(ラーゲリ)の水準によって震撼させられた社会は行きづまり、以前は禁じられた笑いという新鮮な大気を吸いに突き進んだ。笑いは真実の同義語になった。真実と笑いには否定的なものの破壊と肯定的な原理の確認という二つの課題があった。前者と強く係わっているのが、風刺であり、前時代の風刺とは少しちがうが、誇張された悪党とか、ただちに暴露された結果への信頼とか、そういった傾向は似ている。
全ソ連的な冗談のバッカス祭は、文字どおりすべてにたいしてユーモラスに皮肉に陽気に反応するように強制した。おどけ者のタイプがひろがった:балагуры冗談好き、洒落の愛好者、機知のきく知識人、「ユーモラス」な連中、皮肉のスーパマンなど。省略。愛についてすらそう。省略。内容を厳重に規制されていたジャーナリストたちはフォルムで自分を表現した:лихиезачины:毒のある発端、効果的な終わり、しゃれやアネクドートで各文章を飾った。特にフルシチョフの娘婿で「イズベスチア」の編集長のアジュベイの軽い手から、署名入り写真と表題との大胆な技術が発達した。内容に対する形式の不一致は誰の心をも騒がせなかった。時代にふさわしい偶像たちがいた。国中がアルカージイ・ライキンにヒステリックな愛を抱いた。劇場での、また一般社会での陽気さはテレビで放映された全国民の遊びКВН(陽気ウィット・クラブ)に固定された。何千という洒落好きたちの競争は何百万のテレビ視聴者を集めた。陽気クラブの才能あるリーダーは映画スターなみに有名だった。ワレリイ・ハイトやユーリイ・ラジネフスキイ。引用を利用した学生のコミック寸劇は、時代の陽気の頂点となった。
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