1946年、終戦の翌年頃から文化粛清「ジダーノフ批判」=第二次世界大戦後のジダーノフによる文化的引き締め。社会主義の路線から逸脱を批判。
文学:アフマートワ
「レクイエム」(30年代に書かれるが、執筆や発表禁止のためスターリン批判後にやっと国外で出版)
「ヒローのいない叙事詩」(1962)
ジダーノフにより「人民に無縁なデカダンス詩人」として批判される。ゾシチェンコ作家同盟除名。社会主義リアリズムからの逸脱。社会主義リアリズムについて。形式主義、ブルジョア的退廃的傾向。
音楽:
作曲家のショスタコーヴィチやプロコフェエフ、ハチャトリアン、カバレフスキイ、カレートニコフらも形式主義の名のもとに、不協和音や無調という現代音楽に向けての自由な実験を批判される。メロディやハーモニイの古典的伝統の継承を要求される。
第二次大戦後、ソ連では「無葛藤理論」が支配した。
映画:『ベルリン陥落』
ヒトラーを愚者扱いし、スターリンに似た人物を全国から探し的役を演じさせ、スターリンを慈父のごとく礼賛。
1953年3月5日、スターリンの死。同年11月、「プラウダ」紙に「芸術家の独創性と個性」を尊重せよという記事が掲載される。「ソビエト音楽」誌にもかつてジダーノフから批判されたハチャトリャンが「創造の勇気とインスピレーション」という文章を書いた。グラズノフ(教室ではCDを聴きます)、ラフマニノフなど比較的穏健な作品から解禁になっていった。
1956年2月、第20回党大会でフルシチョフによるスターリン個人崇拝批判。→「雪解け」の始まり。
1956年10月、反動としてハンガリー事件発生。ソ連は武力でこれを弾圧。それでも「雪解け」を止めることはできなかった。
音楽:
「雪解け」でショスタコーヴィチの名誉が回復された。ジダーノフ批判でやり玉にあがったラフマニノフ、メトネルなどの作品がつぎつぎと初演された。グバイドゥーリナやシュニトケ、カレートニコフらは雪解け現象のなかで、ストラビンスキイ、バルトーク、ブーレーズ、シュトックハウゼン、コラージュ、点描主義、電子音楽などの技法を一挙に勉強。1957年にグレン・グールドが訪ソして現代音楽を演奏、熱狂的な拍手に迎えられる。50年代の終わりから国際青年フェスティバルがモスクワで開かれ、これが外からの情報の流入につながった。
1959年にはバーンスタインがニューヨーク・フィルを率いて訪れ、当局の抑圧を押し切ってストラヴィンスキイの『春の祭典』を上演、ストラヴィンスキイの帰国の意図を伝えた。この折衝は高い政治レベルで行われ、ストラヴンスキイの訪ソは認められた。その際バーンスタインはショスタコーヴィチ、ハチャトリアン、コンドラシンらのソ連音楽会のエリートや若手音楽家たちとも会った。これがきっかけでストラヴンスキイの音楽は全面的に解禁され、自由に演奏されるようになった。作曲技法はシュニトケからシチェドリンらに広く影響をあたえた。(以上はカレトニコフ『モスクワの前衛音楽家』新評論、杉里直人の解説に依拠)
1962年にはストラヴィンスキイ自身が帰国できて、自分の指揮で『ペトルゥーシカ』や『花火』を演奏した。この時以来、彼の音楽は全面的解禁。(前出カレトニコフ『モスクワの前衛音楽家』252頁以下を参照)
1964年にはピエール・ブーレーズがBBCオーケストラを率いて訪ソし、自分の作品を指揮した。
60年代半ば、カレートニコフの12音技法『ピアノのためのヴァリエーション』。モスクワの電子音楽スタジオにシンセサイザーが導入されたのが、この頃。これによって、グバイドゥーリナの『ヴィヴァント・ノン・ヴィバント』や、シュニトケの『流れ』などが生み出された。
文学:1956年「雪解け」現象
エレンブルグ『雪解け』。ドゥージンツェフ『人はパンのみによるにあらず』(1956)。
1958年、イタリアで出版されたパステルナークの『ドクトル・ジバゴ』がノーベル文学賞受賞。(イヴィンスカヤ『パステルナーク・詩人の愛』新潮社を参照)この間のいきさつ:ハンガリー事件当時すでに大学の壁新聞があり、これが58年頃からサミズダートの形をとってソ連の地下世界を流れることになる。60年代初めにかけて「フェニクス」「シンタクシス」その他の雑誌が発行される。アネクドートも創られる。
演劇:リュビーモフ、トストノゴーノフ、エフロス、ビソツキーらが育つ。
文学:
1960年秋、ブコフスキイ、ガランスコフらマヤコフスキイ広場に→「マヤーク」1961年にソルジェニーツィンも『イワン・デニーソヴィチの一日』をサミズダートで流し、他方ではコーペレフが『イワン・デニーソヴィチの一日』を「ノーヴィー・ミール」誌に持ち込んだ。同編集部のアンナ・サモイロワがこれを机上の原稿の山から拾い、編集長で詩人のトワルドフスキイがフルシチョフのレベルに話をたちあげる。
1960年代前半に若い詩人や作家たち、エフトシェンコ、アクショーノフ、ヴォズネセンスキイらが登場。「農村派」としてシュクシン、ラスプーチン、ベローフら活躍。
1961年の第22回党大会で、フルシチョフは10年後の展望をのべる。これはアネクドートになる。
1962年10月、キューバ危機の回避。ケネディは1963年に暗殺され、1964年10月フルシチョフの党書記長解任劇。
ジノビエフの漫画『国連総会での靴叩き』
演劇:
演出家のリュビーモフはフルシチョフが解任される半年前に「雪解け」現象を利用してタガンカ劇場に入った。旗揚げ公演はブレヒト『セチュアンの善人』。『ハムレット』。チェーホフ『三人姉妹』。ソ連におけるブレヒトは前衛的な演劇として敬遠されていたが、リュビーモフはあえてこれをとりあげた。メイエルホリドの路線を継承したことを意味する。メイエルホリドは革命初期までのロシア・アヴァンギャルドの先駆者で、革命のための演劇というより、演劇の革命を行った演劇人である。ソ連では「スタニスラフスキイ・システム」(自然主義リアリズム)がひとつの制度になっていた。チェーホフの『三人姉妹』(1900)では、三人姉妹が地方の県庁所在地の町からモスクワへ行くことを夢見ている。そこへモスクワから師団が駐留してきて、一家との交わりをもち、夫のいるマーシャはヴェルシーニン中佐との恋におち、イリーナは退役したトゥゼン
バフ男爵とモスクワへ行こうとする。しかし、師団は他の町へ移駐することになり、男爵は決闘屋のソリョンヌイ中尉に決闘で殺される。リュビーモフはチェーホフの「気分劇」ともいわれる静謐な劇空間をひっくり返して、チェーホフが舞台裏に引っ込めたドラマを逆に舞台に出し、それを一つの統一された空間に収めるいう実験に成功した。舞台上の時間の流れを切断しながら、軍楽隊の演奏でプロット(筋)を押し上げ、役者の台詞もしばしば叫びとなり、20世紀芸術の実験を果敢に行っていった。こうした実験的展開と同時に各エピソードに、ソ連全体主義制度に対して鬱積した不満や自由と人権に向けての希求があり、上演後の観客のリズミカルな手拍手には異様な熱気がこめられていた。
バレエ:
当時、モスクワ・ボリショイ劇場の総監督グリゴロービチ。プリマはマヤ・プリセツカヤ(マヤ・プリセツカヤ『闘う白鳥』山下健二訳・文芸春秋社を参照)で、『白鳥の湖』のオデット役がハマリのレパートリー。
1964年にキューバのモダン・バレエ団を率いて振付師(演出家)アルベルト・アロンゾーがモスクワに来たとき、プリセツカヤと会い両者意気投合、『カルメン組曲』の成立。(『権力とユートピア』6ー7頁を参照。オデットばかりを演じてきたプリセツカヤの不満が述べられている)
その他:
ガーリチ(『「英雄」たちのロシア』488頁を参照)、オクジャワ(1924〜1997)、ヴィソツキー(1938〜1980)らの活躍。1965年9月、シニャフスキイが路上で逮捕される。7年の重労働刑。ダニエルも5年。
1966年、ソルジェニーツィン『癌病棟』を執筆、サミズダートで流す。この頃からソ連はスターリン主義の復活、ネオ・スターリニズムの時代といわれるようになった。
1968年8月、チェコの自由化を武力弾圧するため、ソ連軍戦車団がプラハに侵入。ブレジネフの「停滞の時代」。汚職と贈賄の官僚主義が始まった。「10年間でアメリカに追いつき追いこす」というフルシチョフの自信に満ちた1961年の第22回党大会での宣言は実現せず、アネクドートの笑いぐさになった。
それは芸術文学の停滞の時代でもあった。文学誌に載る作品は、監視体制と秘密警察の抑圧による集団主義社会の枠からはみでないものに限られていた。ブレジネフ時代の文化は、まず体制派の御用文化とサミズダートに分けることができる。体制順応派は日常の市民生活を小説でも舞台でも表現した。中年男女の恋とか(アルブーゾフ)、登校拒否したクラスのハズレ者をどういうふうに更正させるかなど、共産主義体制が生み出す矛盾とは係わりをもたない内容である。
他方、反体制派は政治・社会活動家と並んで、画家、作曲家、文学者たちがいた。政治活動の最も代表的な反体制活動家は物理学者のサハロフである。数学者シャハレービチや物理学者オルロフ、他にもいた。フルシチョフに62年12月、「ろばの尻尾で描いたような絵」と抽象画を非難された画家たちは、当局の公認を得ないで露天で展覧会を開いたが、ブルドーザーでつぶされてしまった。シンガー・ソングライターではガーリチという詩人が自作自演し、それをカセットで流して有名になった。しかし、反体制派は職場も特権も車も別荘も、なにもかも喪失するのだから悲惨である。結局、亡命せざるをえなくなる。1970年代のソ連には、順応派と反体制派の間に中間派という、微妙に重大な層が存在していた。トリーフォノフやラスプーチン、シュクシン(邦訳は群像社から出ている)らである。
ブラート・オクジャワ(1924〜1997)「フショ・タキー・ジャーリ」の歌詞
フショ・タキー・ジャーリ※1)
過ぎたことは戻らない
悲しいことはないさ
それぞれの時代に自分の森が育つ・・・フショ・タキー・ジャーリ
アレクサンドル・セルゲービチ※2)と一緒に夕食をとれないのは
わずかに15分でももう手探りで路上を放浪をすることはない
車が待ちかまえている。ロケットが遠くへ運んでくれるフショ・タキー・ジャーリ
モスクワにはもう御者がいないのが
たとえ一人でも
これからはもう居ない
・・・ああジャーリ※1)それでもやっぱり残念、の意
※2)詩人プーシキンのこと
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