
ハ ハ ハ 本日の講義内容
(1)ゴシック精神とジャコメッティ
(2)シュルレアリスム時代のジャコメッティ
(3)第二次世界大戦中のスイスで
(4)サルトルやジュネとの交流
(5) ヤナイハラとの出会い
(6)宇佐見英治が見たジャコメッティ
ハハ ハ
ハハ ハ ハ ハ ハ イラスト ハ 『ジャコメッティとともに』(筑摩書房1969)
ハ 以下の文章は必ずしも「本日の講義内容」通りの順番ではないが、主旨は同じである。
ハ NHK日曜美術館(1999.5.2)で「ジャコメッティとヤナイハラ」が放映された。
「ダダとシュルレアリスム」でのべたように、チューリヒはダダ発生の地だが、現在そこにジャコメッティ美術館がある。NHK日曜美術館「ジャコメッティとヤナイハラ」では、チューリヒの市街とジャコメッティ美術館と学芸員の話がまず出てくる。それから矢内原伊作の本『ジャコメッティ』についての加藤周一のコメントが続く。加藤氏のコメントによると、矢内原の本はジャコメッティのモデルになった矢内原のすぐれた芸術的感性と観察によるジャコメッティ論だが、なによりも、20世紀を代表する彫刻家ジャコメッティと親しく交わって、その言動をじかに記した世界でも唯一の貴重な証言である。
矢内原伊作は1854年秋から56年秋まで、フランス政府の給付金を受けてパリに滞在したが、55年秋、東京の宇佐見英治から手紙をもらった。第二次世界大戦後の1948年に、ジャコメッティの個展がニューヨークのピエール・マチス(画家アンリ・マチスの息子)画廊で開かれ、その際サルトルのジャコメッティ論がカタログとサルトルの雑誌「レ・タン・モデルヌ」に発表された。当時、宇佐見英治はサルトルのジャコメッティ論を読み、さらにニューヨークでのカタログで実際にジャコメッティの彫刻写真を見るなり、一種の鬼気、戦慄が伝わってきた。
必ずしも東洋的と考えたわけではないが、日本の百済観音とか十一面観音菩薩とか、そんなものを思わせて「ふしぎな血縁があるような」気がした。それでジャコメッティの記事を『美術手帖』に書き、できればジャコメッティに渡してほしいと言ってきた。
宇佐見の論文にはジャコメッティの作品の写真もたくさん掲載されていた。それでジャコメッティに会う用事というか口実ができた。そう思っているときに彼は偶然ジャコメッティの作品を置いている画廊の前を通りかかったので、画廊に入り・・・画廊主に彫刻家へのメモを預けて帰ってきた。すると数日後にジャコメッティからモンパルナスの画廊で会おうという連絡があった。
イラスト 『ジャコメッティ』(みすず書房1996)
ジャコメッティは夜から朝まで仕事にうちこんでいて、かんたんに他人と会う人ではなかった。「しかし人柄としては、たいへん気さくなというか、自由な人、開かれた精神の持ち主で、時間や機会が許せば、誰とでも喜んで話をするといった気持の広い人でした。それで、私は初対面でしたが、気楽にいろんなことを話したのです。」(矢内原伊作『ジャコメッティ』(みすず書房1996。絶版になった『ジャコメッティとともに』(筑摩書房 1968にも同じ記述がある。ついでにいうと、絶版になった『ジャコメッティとともに』のほうが、個人的体験が書かれていて面白い)。矢内原伊作が日本から持参していた『日本の彫刻』を見せると、ジャコメッティはたいへんな興味を示した。そして、いま創作的に行きづまっているという話までした。

ハハ ハ ハ ハ イラスト右 「森」(1950)『ジャコメッティ作品集』 同左「台座の上の4人の女」1950年 『ジャコメッティ作品集』
宇佐見英治は、当時日本では殆ど知られていなかったニューヨーク経由のジャコメッティの彫刻を写真で見たときのことを、こう語っている。「一種の鬼気、戦慄が有無をいわさず伝わってきて、とにかくその不思議さに圧倒されました。それからぼくの目には、日本の百済観音であるとか、十一面観音菩薩とか、或いは十二神将像をどこか思わせるものがあって、必ずしも東洋的だと観じたわけじゃないんですけど、何か像の捉え方に、不思議な血縁があるようなことを観じたのです。」(『見る人』みすず書房 1999 に収録されている矢内原伊作との対談。司会は412画廊の村越美津子)
イラスト 「アトリエ正面」 撮影矢内原『アルバム・ジャコメッティ』
矢内原伊作は1955年の秋カフェでジャコメッティと会って以来、午後から明け方まで制作に没頭しているジャコメッティの邪魔をするわけにいかないので、ジャコメッティが行くカフェやレストランでときどき会ったり、アトリエを訪れたりしていたが、翌96年の前半から一層親しくなり、一緒に芝居に行ったりした。ジャコメッティ夫妻は矢内原と一緒に、日本から興行に来た吾妻歌舞伎を見てすっかり感嘆したという。
ハ ハ ハ ハ
ハ 帰国の直前になって、モンパルナスのカフェで矢内原がジャコメッティに会っているときに、ジャコメッティはテーブルで矢内原の顔をデッサンしていたが、突然「アトリエで君のデッサンをしたい。 ジャコメッティが「名残惜しいから記念に君の顔を書こう」と言いだした。ジャコメッティは前から「君の顔を書こう」と言っていたが、矢内原はあまり当てにしていなかった。それで矢内原は軽い気持で記念になるだろうと思ってポーズを引き受けた。ところが、ジャコメッティはこれにのめりこみ、自分が描きたいようにはヤナイハラを 描けないことが分かってきた。
ハハ ハ イラスト左 「制作現場」(1) 撮影矢内原『アルバム・ジャコメッティ』41頁制作現場」 同右(2)
撮影矢内原『アルバム・ジャコメッティ』43頁ハ
宇佐見英治『見る人』(105頁)にジャコメッティの描写法についての具体的な記述がある。
矢内原の『ジャコメッティ』(80頁)には、ジャコメッティ自身の発言が示されている。
モンパルナスのアトリエでジャコメッティはヤナイハラの肖像を描きながら危機に陥る。
ハ NHK日曜美術館(1999.5.2)では、ジャコメッティの故郷スイスのスタンパと、彼が16歳のときに弟ブルーノの顔を彫った見事な彫刻が映される。
ハ シュルレアリスムとジャコメッティ
1922年スイスからパリに移り住む。同年チューリヒからダダのトリスタン・ツァラがやってきて、アンドレ・ブルトンと共同作業を始めるが、長続きせず、やがて決別した事実を思い出そう。まもなくブルトンの主導のもとにミロや他のアーチストたちが集まり、シュルレアリスムが成立する。
1922〜27年の間の何年間は、モンパルナス通りと交差するラスパイユ通りのオテル・ドゥ・ラ・ペー(平和ホテル)に泊まり、制作と勉強に励む。アルバイトとして弟ディエゴと家具や室内装飾の仕事をする。
25年に初めてジャコメッティに作品の依頼があった。
28年 画廊に出した作品「頭」と「人物」が直ちに売れ、評判になる。
29年 「当時は悪く見られていた。一種の堕落のようにみなされていた」(ジャコメッティの発言)が、たまたまバタイユやレイリスと知り合う。ハ
アヴァンギャルドに関する最も重要な画商の一人ピエール・ロブエと契約を結ぶ。ミシェル・レリスがバタイユの雑誌「ドキュマン」に ジャコメッティ論を書く。ジャン・コクトーもまたジャコメッティについて書いている。アンドレ・ブルトンらシュールレアリストとも知り合う。
ハ バタイユの雑誌「ドキュマン」は、シュルレアリスムに異議をとなえるジャック・プレヴェールその他が集まった。ジャック・プレヴェールは詩人で映画『天井桟敷』のシナリオライター。彼の詩はシャンソンで歌われた。
ハ 1930年 ホアン・ミロ、ハンス・アルプ、アルベルト・ジャコメッティの三人展が開かれ、ダリがこれを見て感銘をうけ、ダリとブルトンがジャコメッティをシュルレアリスムに勧誘して、自分たちの運動に参加させる。
左から 吊された球1930年ボヌフォア 喉を着られた女1932年ボヌフォア キュービズム的な頭1934年ボヌフォア



しかし、ジャコメッティはアンドレ・ブルトンらが強くひきとめたにもかかわらず、1935年にシュルレアリスムから離れた。その年からジャコメッティは、「オブジェ」を制作することを止め、モデルを前に置くようになり、1940年には「モデルを見えるとおりに再現する仕事にとりかかった。」しかし、対象に似せれば似せるほど、小さくなった。マッチ箱に入るほどの像になった。宇佐見英治著『見る人』で、ジャコメッティの発言「自由、生きる、闘う・・・」とともに「歩く人」「立つ女」「大きな頭部」3点セットについて触れられている。
ハハ イラスト 「アネット夫人と」(1951年)
ハ 1940年ひとまずジャコメッティがスイスへ立ち、弟ディエゴが後に続く予定だったが、ドイツ占領軍がその直後にビザの発行を禁止、ジャコメッティはアトリエに戻ることができず、弟はパリでアトリエを守る結果に終わった。スイス時代に知り合ったアネットが1946年パリに来て親子ほどの年齢差のあるジャコメッティと同居。49年に結婚(ジャコメッティ49歳)。
ハ イラスト左から 「歩く3人の男」1948年『カタログ』 「林間の空地」1950年「戦車」1950年
『ジャコメッティ作品集』 「ディエゴの肖像」1953年 『ジャコメッティ作品集』
ハ 



1958年、ニューヨークのマンハッタン銀行の広場に設置するモニュメント製作を求められたので、ジャコメッティは「歩く人」「立っている女」「大きな首」の3点セットの構図を考え、3点のブロンズを制作した。しかし、死の前年、1965年、ニューヨークの近代美術館で開かれた大回顧展に招かれ、初めてニューヨークを訪れた。彼は実地で広場を見て、当初の3点1セットの計画をとりやめ、代わりにただ一点「立っている女」の像を7、8メートルの高さにすることを考えた。しかしまもなく死んだのでその計画は実現しなかった。
ジャコメッティのデッサンはロダンやマイヨールやヘンリー・ムアなどと違って、彫刻のための下絵ではなかった。ジャコメッティの目に見える「対象」とはなにか。かれにとっての「芸術」とは何か。いずれも宇佐見英治『見る人』参照のこと。
ハハ イラスト左「中庭に立つ女」撮影矢内原 同右「歩く人」1960年 『ジャコメッティ作品集』
ハ 高さ187

NHK日曜美術館(1999.5.2)で司会者は、戦後に発表されたジャコメッティの『歩く3人の男』『立っている女』に「現代特有の孤独と不安がある」と解説しているが、矢内原伊作の『ジャコメッティとともに』を読むと、こうした表現に対する ジャコメッティ自身の反論が見られる。
ハ ジャコメッティの不満はとうぜんで、哲学的にいえば人間の孤独は生きていることの前提条件である。人間は一人で生まれ、一人で死んでゆく。自分にしか分からない自己。自分には分からぬ他者の視線によって醸成されている自己。将来になって自分をふりかえるという時間の距離を置かねば自分にすら分からぬ現在の自己。
ユニークな芸術家ほど各人の「孤独」を内包している。従って、ある創作者の作品解説の際に、「彼もしくは彼女は孤独だった」と言っても始まらない。「現代の孤独」という以上は、それがどんな孤独なのか説明の積み重ねが必要だろう。実存主義者のいう「実存」なのか、ポスト構造主義者のいう「差異」なのか。単なる心情としてのセンチメタルなのか。サルトルもジュネもそれぞれにこの問題に触れている。
ハハ イラストハ ジャコメッティ『私の現実』(矢内原伊作、宇佐見英治編訳 みすず書房1976)
ハ ジャコメッティはモデルをつとめる矢内原にこう語った。「顔を描いてはならない、顔は画面の上で生まれるのでなければならない。つまりそこにあるものとしてではなく、逆に無いものとして、見られることによってはじめて生まれでるものとして描かなければならない」と彼はよく言った。だがどうしたら虚無が描かれるのか。だがどうしたら描かれるのか。「消すこと、内部に向かってどこまでも消して行くこと、そして何が残るのかを見よう。結局何も残らないかもしれない。ちきしょう。」(『ジャコメッティとともに』237)
ハ ジャコメッティはアトリエでヤナイハラの肖像を描き始めるが、途中で、どう描いたらよいのか、分からなくなり、苦闘する。思うような肖像ができず、ジャコメッティは絶望し、身をよじって口惜しがる毎日だった。剛毅なはずの芸術家が、ある日、思うように描けずひっそり泣いているのを見て、矢内原は驚いた。彼は思わぬ事態に、モデルを続けるのを断るわけにいかず、飛行機の搭乗券を幾度もキャンセルした。画家もモデルも午後から深夜まで、ろくに食事もせず、くたくたになるまで、向かい合った。一人は重いパレットを左手に、画布の肖像を描いたり消したり、歯をくいしばり、ときに絶叫した。モデルはモデルでじっと椅子に坐ったまま、沈黙し、相手と対話しながら、ときには相手を慰め、ときには為す術もなく、呆然としていた。勤め先の日本の大学や家族から、帰国せぬ矢内原伊作の安否を気づかう問い合わせがひんぱんにきた。父、忠雄からは「すぐに帰国するように」との電報さへ送られてきた。彼がモデルから解放されて帰国したのはやっと11月半ばのことである。当日も空港に駆けつけるぎりぎりまで、ジャコメッティはヤナイハラを解放しなかった。
ハ ジャコメッティの懇請により、矢内原伊作はその後、数年間、毎夏パリへ行き、計228日モデルをつとめた。ジャコメッティはヤナイハラの油彩(油絵)だけではなく ブロンズも彫塑したが、抹消することが多かったので、作品としては十数点しか残っていないといわれる。ここに示している油彩のヤナイハラ像の他に、ぼく自身がいつか目にしたヤナイハラ像があり、それを念頭において、以前ぼくは 「同時代」特集「顔」で、ヤナイハラ像についてのべたことがある。ヤナイハラ像の眼窩からは何か向こうの背後の世界の光が、描く者、或いは見る者の視線に向かって真っ直ぐに放たれてきて、空(くう)で交差している。
イラスト 「同時代」55号の表紙
ハ NHK日曜美術館(1999.5.2)で宇佐見英治は、ジャコメッティの主なモデルとしては弟ディエゴとアネット夫人と矢内原伊作の三人がいたが、矢内原こそがジャコメッティと最も自由に平等に意見を交わせることができたモデルであり、相互に向かい合い、見交わすことのできる人物だったこと、相互に「響きあう」関係だったことを指摘している。
ハ 矢内原伊作をモデルにしたとき、とりわけジャコメッティが創作的危機に陥っていたことは、哲学者で作家のサルトルがジャン・ジュネとの対話で証明している。ではなぜジャコメッティが矢内原伊作のときにこれほど苦闘したのかを、イヴ・ボヌフォアは『ジャコメッティ作品集』(リブロポート刊 1993)
448頁以下で解釈している。
ハ ジャン・ジュネは、ヤナイハラ像制作過程のジャコメッティの悪戦苦闘についてエッセー「ジャコメッティのアトリエ」で
こうのべている。
ジャコメッティはヤナイハラ像の作品を十数点しか残していないが、苦闘の過程をとおして得た視線と技法を、のちの作品に活かし、弟ディエゴや「ロタール」(1964-5)像のような傑作をうみだした。
1961年夏、矢内原伊作はジャコメッティの故郷、スイスのスタンバで過ごした。その矢内原の紹介で今度は宇佐見英治がパリでジャコメッティの好遇をうけ、彼もまたスタンバに招待されている。
宇佐見英治がジャコメッティについて書き、それが矢内原伊作をジャコメッティのもとへと促した。矢内原の出現により、ジャコメッティは創作上の転機を迎え、苦闘の末に新しい道を開いた。このプロセスをたどると、ややおおげさな言い方をするなら、「偶然」の展開による「必然性」ともいうべき 「fatalism」について思いを致さざるをえない。




イラスト左から ハ 「故郷の山と森」撮影矢内原 「スイスのスタンバで母親」撮影矢内原
ハ 『見る人』(みすず書房)表紙
宇佐見英治とアネット夫人 イラストハ 「ヤナイハラ」1959年 『ジャコメッティ作品集』433
ハ NHK日曜美術館(1999.5.2)で米国のスミソニアン博物館学芸員は「モデルとしてのヤナイハラの役割は、海外でも高い評価をうけるようになってきた。
ヤナイハラとの格闘で得た技法をのちに弟ディエゴの肖像制作に適応している」と語る。その延長上に1965年の遺作となった『ロタールの像』(『ジャコメッティ作品集』の表紙絵)がある。
日曜美術館で加藤周一は「ジャコメッティはドナテーロ(伊1386ー1468)からロダン(仏1840ー1917)を媒体として、それまでの20世紀を代表とする彫刻家と見てよい。彫刻という意味にもよるけど彫刻家としては、ぼくはジャコメッティに最も感動する」とのべている。また加藤氏は「絵画のルオーのように、流行の主流派からちょっとはずれた場所で、主流に抗しながら自分自身の型を見いだし、それを究極まで創りだしていく点にジャコメッティという天才の特質がある」ことも指摘している。
ハハ ゴシック精神とジャコメッティ
数百万年前に原生人類(川崎註。朝日新聞夕刊2000年12月5日に600万年前の猿人化石が「発見された」との報道)が発生したが、15万年前から人類は立ち上がった。ただし止まることはできず、視線は下方に向かったままで、ずっと狩猟で暮らしてきた。
古代においては、聖なるものは地下にあった。水平行動の奧に向かう場所である。2万年前の人びとは狩猟の成功をを念じて、アルタミラ洞窟の壁に動物を描いている。
何かを立ち上げるという行為は前4世紀のメソポタミア文明のときに生じた。農耕で天気に注意するようになって天候を気にして見上げる習慣が形成された。そのときから上方、天に権力者が位置するようになる。ピラミドやバクダットのソロモンの神殿などで、紀元前925年頃。こうして垂直の軸としてのゴシックの塔が現れる。
ハ 東洋では塔の技術が発達しなかった。長安の寺の建築物や、法隆寺五重塔は重ねであり、垂直とはいえない。長安の大雁塔(写真)。中国では「天」は地図からすぐ上を指す。中国では天は水平、雲の動きと見るが、ヨーロッパ人の天は真上を指す。
ハ 何かを見るという行為は、そこに反映や反射の心理的動きを生じさせる。ゴシック建築を遠く、或いは近く見るとき、そこに精神の垂直性を反射的に見ざるをえない。
ハ ジャコメッティの「森」(1950)は数人の人間が樹林のように立ち、そして歩いている。人類は樹木のように立って歩く唯一の動物である。しかもまっすぐ立っている。ジャコメッティでは人間の足が一本になっている。
ハ 人間だけがいかにも立つという形で立っているのは、人間が動物であると同時に植物として生物進化の先端に立っていることを意味する。しかも人間は身長がほぼ180センチ前後で成長を限定され、そして死んでいく。ジャコメッティを通してそういうことを知った。
ハ 樹木には一定の高さがある。樹木も人間も高く伸びようとするが、根をはり、地下で栄養をとり、その反映として上に伸びる。
ハ ジャコメッティ自身も女性は静止していると見ていた。これに反し男性像は動き歩いている。それも攻撃的である。
ハ ハ ハ サルトル、ジュネ、ジャコメッティの関係
サルトル、ボーヴォワール、ピカソらがジャコメッティをひんぱんに訪れるようになったのは1940年からである。戦後の1954年にジャン・ジュネと知り合った。哲学者サルトルのようなエリートが、犯罪のために少年院と監獄で多くを過ごした詩人ジャン・ジュネとつき合った理由はどこにあるのか。それはサルトルの『殉教と反抗 聖ジュネ論』やジャコメッティ論から辿らねばなるまい。彼らとジャコメッティとの共通点はどこにあるのか。
ハ ジャコメッティについてサルトルは「ジャコメッティの絵画」(矢内原伊作訳『シチュアシオン�』人文書院)を書いている。ジャコメッティは翌朝が待ち遠しいほどに、見えるようになるはずの「絶対」の像を画布に定着しようと苦闘した。彼は山の登り坂と下り坂を同時に二次元画面に描こうとした。しかもそれが生きた人間の顔貌になったときにさらに困難を加えた。この動く複雑系を、ジャコメッティは真実のままに画布に定着しようとした。「絶対」を把握できるはずはないが、「絶対」の把握の一瞬前までは、動的な描線によって暗示し、定着できるのではなかろうか。これがジャコメッティのたゆまぬ探求の動機だったと思われる。
イラスト 左から サルトル全集『シチュアシオン』 「サルトル」1946年 『ジャコメッティ作品集』 「犬」1951年 『カタログ』
「 ジャン・ジュネと」撮影矢内原『アルバム・ジャコメッティ』
ハ 



ジャン・ジュネは「ジャコメッティのアトリエ」(宮川淳訳 ジャン・ジュネ全集3 新潮社)で作品「犬」について
こう書いている。
ジュネはジャコメッティが今にも崩壊しそうなアトリエで制作に集中しているときでも、色の浅黒い青年をつれて
、ノックして平気で入ってきた。ジャコメッティは制作中にはぜったい訪問者に会わなかったが、ジュネだけは例外だった。青年は戸口の所で神妙にしていたが、ジュネは制作の邪魔になるのもかまわず、ひとりでしゃべっては、誰彼を批判し、最後はマラルメ賛美で終わって帰っていった。ジャコメッティはいつも「なんという怪物だ」と言うのだった。(ジャン・ジュネ全集3 月報 矢内原伊作「ジュネとジャコメッティ)。
ハハ ジュネはまた自分の戯曲『バルコニー』の表紙がジャコメッティの石版画と題字で飾られるているのは、ジュネがそれを強く望んだ結果である。ジュネもまたサルトルと同様、ジャコメッティのモデルになったが、2週間とは続かなかった。矢内原所有の『バルコニー』にジュネは「友情をこめてサインしてくれた。」(同月報より)
制作に熱中していたジャコメッティではあるが、レストランやカフェで休憩したときには、何種類もの新聞をポケットから取りだして読んでいた。とくに「政治」には強い関心を抱いていた(宇佐見英治『見る人』)。
ハ 「見る」という行為は、とにかく何物かに迫りつづける認識行為であり、およそ安定や幸福からは遠い場所での行為である。多くの人びとは真理を少しでも早く入手して「安心立命」するために、一つのイデオロギー(例えば共産主義)やある種の宗教に参加し、枠の中で安定を得ようとする。もちろん亡命ロシア哲学者ベルジャーエフのように、信仰生活に入ってからも第二の自由、つまり不安定と不安と選択を続けねばならぬし、また続けることになると主張する人もいる。
だが既成の原理・教条によって枠づけられてきたイデオロギーや宗教、哲学を受け入れず、最初に「見る」ことを選択する姿勢は、不幸や不運や、要するに社会的評価によるマイナス要因を進んで引き受ける勇気を必要とする。だがイデオロギーが崩壊し、キリスト教神話(例えば原罪説など)が徐々に崩壊している現代から将来にかけて、既成の「真理」に惑わされぬ真実を見ようとすれば(なぜなら真理はたえず時代によって変わるから)、「見る」という精神の持続を怠るわけにはいかない。
ハハ 参考文献の中で、文中に明示しなかったものとして矢内原伊作『アルバム ジャコメッティ』(みすず書房 1999) がある。