目 次
(1) サイードの『オリエンタリズム』 (2) ポストコロニアリズム (3) カルペンティエール『失われた足跡』
(4)「リアリズムの魔術」 (5) ポストコロニアリズムの視点から見た『失われた足跡』
(6) ガルシア・マルケス (7) オクタビオ・パス (8) グァテマラの先住民族
(1) サイードの『オリエンタリズム』
サイードはエジプト人だが現在は米国で研究活動に従事している。従って、エジプトが過去西欧から受けた政治的、文明的屈辱を中心に論を展開しているが、彼の視線は「オリエント」としてのアラブ中近東、アフリカ、インド、はては南アジアにも及んでいる。逆にいえば、ロシアやアジアや日本には及んでいない。イラスト 『オリエンタリズム』平凡社ライブラリー文庫の表紙
「オリエンタリズムとは世界を理解し、場合によって支配し、操縦し、統合しようとさえする一定の意志または目的意識そのものである。なによりもオリエンタリズムは言説である。」とサイードは言う。
オリエンタリズム(Orientalism)とは東洋に対する西欧の関係の仕方をさす。これは川崎の見解だが東洋に対する西欧の 植民地主義と異国趣味(エグゾチシズム)の融合である。 植民地政策の根底にあるのは、オクシデント(Occident)のほうがオリエント( Orient)より現代文明としても人種的にも勝っているので、オリエントの国や人を啓蒙強化するという西欧人の考えである。
サイードによれば、オリエンタリズムは言説であり表象である。言説と表象の説明・言説は目的意識をもつ発言である (『オリエンタリズム』平凡社文庫39頁)。表象は再=現前(re-presence)である。即ち、表象(representation )にすぎない。簡単に言えば事実を再構成することであり、更に言えば「思いこみ」とも言える。思いこみのために「オリエント」を利用して、思いこみの言説を展開している。
オリエンタリズムは人間的運動の否定、静止的な永久に凍結したもの、非生産的なものとして見られ、やがて好もしからざる不変性と同一視されるようになる。オリエントが賞賛される場合に用いられる「東洋の英知」といった言い回しは、ここに由来している。 (平凡社文庫『オリエンタリズム』下巻25頁)
第三世界に対して、米国の元国務長官キッシンジャーは、ニュートン的思想変換を持たぬのが後進国である、という蔑視的見解を抱いている。 (平凡社文庫『オリエンタリズム』上巻113頁)
オリエンタリストたちは「アラブ的価値」を絶対的に否定し「アラブは平和より戦争を好む」ときめつける。「西洋人は合理的、平和的、自由主義的、論理的で、真の価値を見分ける能力もち、生来の猜疑心など持たないのに対して、アラブ人にはこれらのことが全部欠けている」とする。
パリでアジア協会が創立され、パリはオリエンタリズムの中心地になる。こうして「オリエント」に全東洋が閉じこめられ、ヨーロッパに付属する演劇舞台となる。オリエンタリストは知識に関する専門家に過ぎず、その知識に責任を負うのはヨーロッパである。その意味でデルプロの『東洋全書』は大きな役割を果たした。1697年、ガランの紹介の役割。17世紀後半。総体的まとめ。ヨーロッパはオリエンタリズム知識で東方を囲い込む自信をもつ。
サイードは、オリエンタリズム、つまり東洋学発展の経緯を詳述している。オクシデントはマホメットとマホメット教を「えせキリスト教」として一方的に解釈する。
ヨーロッパ人はオリエンタリズムによって全オリエントに対して図式化と枠組みを形成し、この伝統にしたがってオリエントに接する。
サイードはアンクチルによるアヴェスター文献の発見と翻訳の意義を強調。1759年オリエントはテキストを以って実態を示す。イラスト 中南米地図
(2) ポストコロニアリズム
ポストコロニアリズムの現況![]()
イラスト 左からメスティソの住居、インディオの住居、スペイン系の住居
サイードはポストコロニアリズムの論客である。ポストコロニアリズムのポストには、ポスト構造主義やポスト・モダニズムの「後」や「終了」という意味は含まれない。脱コロニアリズムとして、未だ対決しなければならぬ民族、政治問題である。1960年代以降にこの言葉が登場し、1980年にパリで会議がおこなわれたが、この言葉はなぜか現代社会に広く根づいているとは言いがたい。ポストコロニアリズムは「クレオール・混血」という言葉によって置き換えられているが、今後どのような展開を示すか、明らかでない。「クレオール」という概念が、人種論解体につながらず、先住民抑圧の装置にもなりうるからである。この具体的な事実は、グァテマラのノーベル平和賞受賞者メンチュウに触れる最後の章で明らかとなる。
中南米のメスティソ(混血人種)概念
1492年、コロンブスの航海。1519年にマゼランがラテン・アメリカの南端を通ってフィリピンへ。日本では足利幕府の時代。その16世紀にスペイン・ポルトガルが襲撃するまで、中南米には先住民族だけが住んでいた。この地の人々はモンゴールと同族ゆえ、日本人とも同種。マヤ、アステカ文明はメキシコに、インカ文明はペルーに栄える。現在も先住民はマヤ、インディオと呼ばれている。
政治的にはその後300年を経て1810年以降、本国がナポレオンによって支配されていた隙をねらって、ラテン・アメリカ諸国が独立。
その300年の間、さらにその後の200年の間に、より一層スペイン系と先住民族との混血が進み、白人でもなければ先住民でもないメスティソという混合人種が生じた。南米にはさらにアフリカから連れてこられた黒人がいた。
国民統合としてのメスティソ概念
1972年、エクアドル大統領ロドゲリスは、スペイン人とインディオとアフリカ黒人からなる国民統合の演説をおこなった。彼のような考え方は、すでに1920年代にあらわれていた。それらのイデオローグの代表者の一人が、メキシコの初代文部大臣バスコンセロス (1921〜24在任)であり、彼は『宇宙的人種』(1925)を書いている。彼らは、西欧的な白人中心の人種主義を批判することで人種混合を肯定し、ラテン・アメリカに「宇宙的人種」が誕生することを確信をもって予言している。しかし、バスコンセロスは「化学的優生学」に対し「神秘的優生学」を説くことで、西欧の進歩主義的、人種主義発想にとらわれている。ポストコロニアル状況でのメスティソ
しかし、国民総合論としてのメスティソ概念は、インディオや黒人を白人化することを意味し、スペイン系による有色民族への「寛容な」支配となり、少数者の権力、主張を封じ込めることにもなる。
ポスト・モダニズム時代における価値や主張の脱正統化、多元化の傾向において、ポスト・モダニズムはポストコロニアリズムに有効であるが、ポスト・モダニズムが脱政治化しているために、ポストコロニアリズム状況の各民族は自己主張の基盤を政治的にもつことができない。飯島みどりによれば、混血はヨーロッパがアメリカを文字どおり「レイプした」結果である(『歴史評論575号』1989) 。この事実を逆手にとって、ナショナリズム(民族主義)を越えた普遍的な国民統合国家を形成するバスコンセロスの意気込みは、たしかにナショナリズム(=排外の論理)を乗り越えるには有効だが、混血が「強者の論理への同化」を意味しているのであれば、そう簡単に評価するわけにはいかない。 したがって今福龍太『クレオール主義』(青土社1994〜1997)のように手放しで人種の混合・混血を肯定するわけにはいかない事情がある。
イラスト ラテン・アメリカの作家たち
ラテン・アメリカ作家たちの一例
カルロス・フェンテス『テラ・ノストラ』(メキシコ)
オクタビオ・パス『弓と竪琴』(メキシコ)
カルペンティエール『失われた足跡』(キューバ)
ピンチョン『V』(アメリカ)
アンヘル・アストゥリアス『大統領』(グァテマラ)
ガルシア・マルケス『百年の孤独』(コロンビア)
バルガス=リョサ 『カテドラルでの対話』(ペルー)
ホセ・ドノソ『夜のみだらな鳥』(チリ)
コルタサール『石蹴り遊び』
プイグ『蜘蛛の巣女』(アルゼンチン)
パブロ・ネルーダ『マチュ・ピチュの高み』(チリ)
(3) カルペンティエール『失われた足跡』 (1953)
シュルレアリストのアンドレ・ブルトンに評論集『失われた足跡』がある。カルペンティエールの『失われた足跡』という表題は、明らかにかつて彼がその流派に属していたブルトンの評論集からきている。カルペンティエールはシュルレアリスムから出発したのである。イラスト カルペンティエールの肖像
カルペンティエールについて
カルペンティエール(1904〜1980)は、キューバの首都ハバナで生まれる。父親は「退廃した」ヨーロッパを見捨てて新しい生活を求めにきたフランス人建築家、母親はスイスで医学を学んだ亡命ロシア人だった。父に音楽への趣味があったため、カルペンティエールは建築と音楽に詳しかった。
1927年キューバで反体制活動を行なってフランスに亡命、『シュルレアリスム』誌を中心にしたシュルレアリスムのグループと交友関係が、カルペンティエールに大きな影響を与えた。1959年のキューバ革命で本格的に帰国し、文化的に重要な役割を果たしたが、一方でカストロ首相との不和が伝えられている。1968年、在パリ・キューバ大使館の文化担当官に任命され、ヨーロッパ各地でベトナムにおける米国の残虐行為を批判するなど、講演やシンポジュウムや法廷で活躍した。1970年にノーベル文学賞受賞。
カルペンティエールはベネズエラに長期旅行し、オリノコ川を遡って密林に入ったことがあり、この時の経験が『失われた足跡』で活かされている。イラスト ツボ型の民族楽器と先住民
『失われた足跡』あらすじ
主人公は宣伝用映画の製作者で作曲家。妻は惰性で演技している女優。愛人ムーチェ。主人公はもと指導教授の古楽器博物館長が属する音楽学校学長からラテン・アメリカの原始民族の古楽器を入手するように依頼される。ムーチェが「サンジェルマン・デ・プレあたりのビヤホールで吹き込まれた物の見方や仕草が私を苛立たせた」とある。訳者は舞台をニューヨークと推定しているが、ムーチェを通してパリの空気も漂っている。主人公はベートーベンの『第九シンフォニー』の崇高さをひどく嫌っている。最初の一夜からムーチェとの性交渉がうまくいかぬことは何を意味しているか。
ムーチェはある種のヨーロッパ文化の表象。「時間を超越した喜びと安らぎを、ムーチェの『疲労』が断ちきる」
ここは昔の時間がそのまま残っている世界。しかし、翌日クーデターが起こる。メスティソの連中が革命を狙っている。「革命が話題になっていた。しかし、それは・・・復元の要あり」「旅行記以外には何も知らない私」「バーでは、外国人たちが酒を飲みながら、仏頂面でトランプや・・・遊びを始めていたが、彼らは口々に、常に騒動を準備している連中としてメスティソを非難していた」ここでメスティソの登場。
クーデターと革命の最中、革命やメスティソに反感をいだく指揮者が、鏡を前に堂々たる身振りでブラームスの「レイクイエム」を指揮していた。この指揮者も西欧文明の表象であり、レクイエムつまり鎮魂歌を作者のカルペンティエールがもちだしたのは、西欧への鎮魂の意味をこめている。
内戦勃発のため、ホテル生活が不便と無秩序の状態に放り出される。泊まり客たちが不安を酒やカルタでごまかしているなか、指揮者だけが現地の不穏分子に対して悪態をつく。カルペンティエールは、指揮者にゲーテの自然賛美を引用させている。「指揮者は憤怒のあまり、穏やかな自然を礼賛したゲーテの手紙を引き合いに出した」
西欧の自然に対し、「ここはジャングルだ!」と言う。西欧教養主義に対する作者のあからさまな反感がある。指揮者は流れ弾に当って棺桶に入れられるが、作者の意図は明らかである。革命騒ぎの際にホテルで知り合ったカナダ人女性画家のアトリエに、ムーチェとでかける。主人公は当地がひどく気に入っている。「標高の変化、清澄な空気、珍しい習慣、幼児の言葉との再会」に没頭しているときに、ムーチェは倦怠を感じる。女性画家の権威ぶった態度が鼻につく。というのはそこに白人の優越感を見ているからだろう。
小説の初めからベートーベンの「第九交響曲」が繰り返し登場するが、それは、スペインというよりヨーロッパ文明を懐かしがる(主人公の)父親の文化を意味している。「第九交響曲」はニーチェと共生し、主人公によってファシズム視されている。パリに憧れ、ムーチェのフランス語を一語ももらすまいとするインディオの詩人、黒人の画家、白人の音楽家たちに対する皮肉。三人は「サンジェルマン・デ・プレ」を文明の中心とみて、その地に行くことを憧れている(サンジェルマン・デ・プレのキャフェはサルトルや文化人たちがたむろする有名な場所)。三人がムーチェに訊くところの「ある党派のリーダー」とはアンドレ・ブルトンのことかと推定される。
カナダ人画家のアトリエからジャングルの奥への定期バスに乗りこむ。幼年時代の経験が甦る。山林描写がすばらしいことも指摘しなければならない。
イラスト フォーク・カトリシズムの祭礼
イラスト チャクモールの像
イラスト マチュピチュの朝ラテン・アメリカにおける世界で最も遠く離れ気質の違う人々のまれなる大混血について。ケルト族、黒人、ラテン民族、インディオ、「新キリスト教徒」の混血。現在と過去の時間の交錯が生じている。西欧を訪れた主人公は「父の追憶していた世界と、私が目の当たりにした世界とのあまりの隔たりに驚き、憤慨した」。ドイツファシズム。ファシズムに協力した哲学者ハイデッガーの存在を示唆しているらしい。 西欧への落胆。
文明から離れて奥地に行くほど疲労し衰弱し、退屈になるムーチェ。放浪する娼婦たちの無垢について。周囲の人々の態度。娼婦たちに好奇心をもち一緒になったムーチェが娼婦に間違えられ、ダイモンド探しのギリシャ人に引きずり込まれ、主人公がムーチェを救いだすためにギリシャ人との暴力事件にまきこまれる。山頂でかがみこんでいた先住民族の女を乗り合いバスが拾い、助ける。それがロサリオ。魅力的な女としてのロサリオの存在が浮かびあがる。
イラスト インディオの若い女性
川の描写。ロサリオとムーチェと自分との、主人公から見た関係。船上体験と村、「馬の国」への到着。かつて繁栄したが、内戦などで過去の町となったサンティアーゴ・デ・ロス・アギナルドスの風景。出帆。超現実的な光景。馬の国から犬の国へ。アフリカの奥地に入るにしたがいムーチェは美しくなくなり、化粧の化けの皮がはがれ、髪、マニキュア、化粧、体型がくずれ、主人公は嫌悪感をいだく。明らかに、この感情は主人公の文明感覚が変容する事実を示している。
二人の喧嘩。ムーチェは女画家のもとに戻ろうとするが、主人公は拒否する。ムーチェが花瓶を投げつける。ロサリオがそのために旅行していた父親の死が伝えられ、葬式終わり、水がめを挟んでの二人の描写。葬儀の夜が明けないのは、赤紫の蝶の大群が朝から空を覆っていたからである。ロサリオがムーチェを打ちのめし、歯を2本折らせるほどの暴行をくわえ、皆が彼女に救助の手をさしのべるほどだった。暴行の理由は・・・ムーチェがマラリア熱にかかる。彼女の病気は主人公には「本物の自然がつくりものに対して行う典型的な復讐のように思われた」
主人公が思わずロサリオと愛の営みを交わしたのは、ムーチェがマラリア熱で寝ていたハンモックの下で、そのときの3人3様の反応と描写がすばらしい。レヴィ=ストロース『野生の思考』(1962)の10年も前に、カルペンティエールは先住民族は「野蛮人」や「周縁」ではないと宣言しているようなものだ。
『失われた足跡』の主人公は「原始人」と称される民族の生活習慣に全く洗練された完璧な世界をみて、彼らに感嘆し、彼らを弁護している。
さて小説の筋に戻ろう。死と面した驚天動地の体験をしながらついにラテン・アメリカの奥地にある古楽器を手に入れる。過去、中世、近代、400年前、或いは原始の復活。危機を乗り越えたペドロ師の礼拝と遠巻きに見守るだけで、キリスト教に帰依しようとしない「原住民」。ペドロ師を主人公はインディオを平定した400年前のスペイン人兵士に重ねて見ている。
サンタモニカ・デ・ロス・ベナードスに「先行者」に連れられてやってきての感想。「基本的な闘争」「天災とか疾病とか」「自然の危険とかは、当然、初めから甘受されていた」「創造とはなにも愉快なものではない」
ノアの箱舟神話に関する「先行者」修道士と主人公の意見の食い違い。キリスト教をこの原始の混沌空間に定着することへの反対が主人公にある。
主人公は「不毛なシジフォスの栗鼠のような回転生活」をやめて、サンタモニカ・デ・ロス・ベナードスで生涯を過ごすことを決める。それはつまりロサリオと結婚することである。そこで「女以外の何物でもない女と結びつくためには、まず新たな価値観を設定しなければならなかった」と言う。この地で、西欧における音楽発生理論の誤りに気づくのである。
作曲に従事する。五線符のための紙を貰おうとすると、先行者は不満で、カプチノ会の修道士は、ロサリオとの結婚にけじめをつけてもらわないと、自分の説教も有効性がないと主人公に迫った。しかしロサリオはまた別の結婚観をもっていて、主人公はそれを聞いて敗北感を味わう。
英雄となった主人公は、正妻ルースからの捜索願いにより、ヘリコプターで文明の首都へ引き戻されることになる。帰途の感想として彼はこう思う。「私は社会の矛盾にショックをうけた。・・・トタン屋根の下で子供たちが折り重なっているような、周辺地域の惨状は冷ややかに見過ごしながら、探検家とか、人類学者とか、狩猟家が好きこのんで選んだ仕事中に行方不明になったり、蛮族の捕虜になったりすると、闘牛士が牛の角で突かれるのと同じくらい陶然で危険なのに、悲しんで大騒ぎをする社会の矛盾である」
「夫婦愛を演じていた」妻との離婚裁判や、先に帰国していたムーチェの発言などから、英雄はやがて愛人とジャングルに逃避行したスキャンダルの主として、新聞でこきおろされる。再びロサリオのいる場所へ行けるアヌンシアシオンまでたどりついたところで、ロサリオが混血のマルコスと結婚したことを知らされる。
小説の中の、「先行者」モンツァルバッヘ、混血マルコス、ペドロ師などはどこででも会える典型的人物だと、カルペンティエールは小説の註釈で述べている。つまり先住民と共生しているメスティソ、白人である。
(4)「リアリズムの魔術」
カルペンティエールとシュルレアリスム
ラテン・アメリカの現実とシュルレアリスム
小説を読むと直ちに了解できる。
(5) ポストコロニアリズムの視点から見た『失われた足跡』
ムーチェと私とロザリオ。
アレッホ・カルペンティエールの父親はフランスを逃れてきた建築家。
母親はスイスに医科大学に勉学にきていたロシア人亡命者。
父親=ベートーベン『第九シンフォニー』=西欧文明。
ハイデルブルグ大学の軍隊行進で先頭に立った哲学者。
ベートーベン『第九シンフォニー』の崇高さへの敵意。「ムーチェがヨーロッパで慣れ親しんだ、芸術的雰囲気を欠いているものに接する際に見せる敵意」
ムーチェは主人公の「時間を超越した喜び」を断ち切る。
好奇心だけの先住民娼婦への係わりに対する因果応報。
(6) ガルシア・マルケス (1928〜)
『百年の孤独』(1967)=シュルレアリスムの最高傑作のひとつ
1982年ノーベル文学賞受賞。イラスト 『百年の孤独』表紙
(7) オクタビオ・パス (1914〜)
『弓と琴竪』(1956)=詩と言語と革命
1990年ノーベル文学賞受賞。イラスト 季節労働者
(8) グァテマラの先住民族
1980年代末の虐殺を頂点とする先住民族への抑圧。
リゴダス・メンチュウの闘い。
1992年ノーベル平和賞受賞。イラスト 『メンチュウ』表紙
お奨め文献
今福龍太『クレオール主義』青土社1991
複数文化研究会・編『<複数文化>のために』人文書院
中村真一郎他『ラテンアメリカ文学を読む』国書刊行会1980
新書館『大航海 1996年11月号』特集:オリエンタリズム再考
サーヘニー『ロシアのオリエンタリズム』袴田茂樹監修/柏書房2000
後藤雄介『ラテンアメリカ「混血」論研究序説─総合と多元の狭間のメスティサヘ─』
後藤雄介 『混血文化論をめぐる一考察―<メスティサヘ>の位置づけを手がかりに』青山学院大学「論集」第39号1998
川崎浹「可能性の使者−オクタビオ・パスとロシア・フォルマリズム」(『本と批評1981年1月号』所収)
他に、アッシュクロフト他『ポストコロニアルの文学』青土社1998があるが、
紀要論文レベルの文章が多いので、学部学生に適切かどうかは判断しかねる。
小説類は、集英社『世界の文学』や新潮社の単行本、その他。
さらに関連文献は各自検索のこと。
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