(1)序 (2)弟子たちの誕生とマーラーの支援 (3)自由な無調による表現主義の時代
(4)12音技法の完成と亡命 (5)アメリカ時代(1)序
アルノルト・シェーンベルクは1874年9月13日にウィーンで生まれた。両親は靴屋を営むユダヤ人でアルノルトは3人兄弟の長男であった。両親には音楽の素養は無かったが、アルノルトは8歳でヴァイオリンを学びはじめるとほぼ同時に作曲をはじめたし、弟といとこも職業的な歌手となっている。一家は貧しく、16歳で父を亡くすと長男の彼は家族のために学校を中退し働いた。5年間、彼はウィーンの個人銀行の窓口で紙幣を数えたという。この間、シェーンベルクは友人たちと音楽・文学・哲学の勉強を続け、またアマチュアのアンサンブルやオーケストラに弦楽奏者として参加し、古典的なレパートリーを実際に演奏して研究した。友人たちのなかで一番大きい役割を果たしたのはアレキクサンダー・ツェムリンスキーであった。ツェムリンスキーはシェーンベルクの2歳年長だが、すでにウィーン音楽院を優秀な成績で卒業した新進気鋭の作曲家兼指揮者であった。彼は晩年のブラームスに認められたことで、保守派にも評価されていたが、自身は歌劇作曲にも意欲を示し、進歩派の作風や美学にも関心をもっていた。彼のアドバイスを受けながら1897年に書き上げられた弦楽四重奏曲ニ長調は、ツェムリンスキーが理事に連なっていたブラームスを名誉会長とするウィーン音楽芸術家協会の会員演奏会で取り上げられた。これは98年3月のことで、好評のゆえに翌年にも再演されている。しかし、続いて作曲されたリヒャルト・デーメルの詩による標題楽である弦楽六重奏曲《浄められた夜》Op.4の演奏は協会から拒否された。
当時のウィーンの芸術界にはアカデミズム派とウィーンの閉鎖的で保守的な状況を打破しようという進歩派との対立があった。ちょうど1898年に美術界ではアカデミズムからの分離独立を唱えたクリムトなどの「分離派」が設立されるし、文学界でもシュニッツラー、ホーフマンスタールなどの「若きウィーン派」の作家たちが台頭していた。さらに「伝統とは怠惰だ」と改革の狼煙をあげたマーラーの宮廷歌劇場での活動も同時に始まった。とくに作曲界はブラームスの美学と技法を絶対的なものとみる保守派とワーグナーの楽劇やリストの交響詩に可能性を見る革新派のせめぎ合いがあった。古典的な弦楽四重奏曲は認めても、標題楽であり革新的な和声語法を含む《浄められた夜》は保守派には当然認められなかったわけである。もちろんシェーンベルクはくじけることなく小さな合唱団の指導し、オペレッタのオーケストレーションを行って糊口をしのぎながら、発表のあても無いままに1900年3月からほぼ1年をかけて長大な《グレの歌》の作曲をおこなった。
1901年10月、シェーンベルクはツェムリンスキーの妹マティルダと結婚。同年末、若い夫妻はベルリンに赴き、創設されたばかりの文芸キャバレー「ユーバーブレットル」の指揮者になったが、ここでの仕事は翌年の夏までしか続かず、生活のためのオペレッタの編曲に明け暮れることになった。この苦境から救い出してくれたのはリヒャルト・シュトラウスで、かれは《グレの歌》の一部を見て感銘を受けベルリンのシュテルン音楽学校での作曲教師の職を紹介、またリスト奨学金からの助成を行った。ベルリンにもう1年留まったシェーンベルクは交響詩《ペレアスとメリザンド》Op.5(1902-3)を完成している。
(2)弟子たちの誕生とマーラーの支援
1903年7月にウィーンに戻ったシェーンベルクは、当時、革新的な教育活動を行っていたシュヴァルツヴァルト女学校の教室を利用した音楽講習会の講師自由教育を打ち出していた新しいシュヴァルトバルト女学校で生徒を集め授業を行った。その一方、ツェムリンスキーと一緒に「創造的芸術家協会」を設立、マーラーを名誉会長に招いて演奏会を開催した。マーラーはシェーンベルクの《浄められた夜》に感心し、ウィーンを離れた後も彼を支持し続けた。この時期の重要作品は弦楽四重奏曲第1番Op.7(1905)と室内交響曲第1番Op.9(1906)である。とくに後者では、4度和声や全音音階の活用によって調性の拡
大が行われている。(3)自由な無調による表現主義の時代
不安定な生計のもとで彼が未知の領域に突入するのは1908年のことである。画家と妻マティルダの駆け落ち事件が起こり、妻はシェーンベルクのもとに戻ったものの、画家は自殺する。この事件はシェーンベルクにとっても弟子たちにも大きなショックであった。シェーンベルクの音楽は、この事件を契機に無調へと進む。この頃作曲していたソプラノ独唱を伴う弦楽四重奏曲第2番Op.10(1908)の第4楽章で無調に入る。同年12月の初演は騒々しい拒否反応を呼んだ。この時期のシェーンベルクは絵画にも表現手段を求め、ウィーンで個展を開いた。その表現内容に共感したのは抽象絵画の生みの親のひとりであるワシリー・カンディンスキーであった。彼はミュンヘンの「青騎士」グループの展覧会への出品を呼びかけ、また「青騎士」年鑑に彼とベルク、ウェーベルンの楽譜を掲載し、その紹介に務めた。「無調」に新しい活路を見いだしたシェーンベルクの創作エネルギーはすこぶる旺盛で、1909年にはゲオルゲの詩による歌曲集《架空庭園の書》Op.9、《3つのピアノ曲》Op.11、《五つの管弦楽曲》Op.16を完成し、また8月から9月にかけては、たった17日間でモノドラマ《期待》Op.17を書き上げた。1910年にはウィーンの王立アカデミーで一時職を得たが、反ユダヤ主義のために辞し、1911年秋にベルリンに移る。この間にシェーンベルクは著書「和声学」の執筆と《グレの歌》のオーケストレーションに集中した。ベルリンのシュテルン音楽院でも多くの悪意に直面したが、作曲家として次第に国際的な注目を浴びるようになった。
とくに1912年に作曲した《月に憑かれたピエロ》Op.21は彼自身の指揮で初演されかなりの成功を収め、その後、11都市で演奏された。また、1913年2月のウィーンでの《グレの歌》の初演は聴衆に圧倒的な感銘を与えたが、それまでのウィーンの仕打ちのためにシェーンベルクはアンコールを拒否した。彼は指揮者として生計を立てる決意をした。そのキャリアは1912年に始まり、多くの都市で《ペレアスとメリザンド》、《グレの歌》、《五つの管弦楽曲》を指揮したが、第一次大戦の勃発によって阻止された。ウィーンに帰ったシェーンベルクは1915年から17年にかけて2度にわたって兵役についた。過酷な環境は喘息をもたらし、この病気はその後生涯にわたって彼を悩ますことになる。
作曲は1913年の音楽劇《幸福な手》Op.18以後停滞し、1916年《四つの管弦楽伴奏歌曲》Op.22を完成しただけだった。彼の関心は宗教的な作品に向かっており、
1917年、オラトリオ《ヤコブの梯子》の台本を完成し、作曲に取り組んだが、この作品は完成されず、初演は死後に行われた。生活は戦時下で困窮を強いられ、たびたび危機的状況が訪れた。しかし、シェーンベルクはその中で「柔軟なカリキュラムで、授業料は支払い能力に応ずる」ユニークなゼミナールを開始。これは成功し、メートリンクに引っ越したあとの1920年まで続いた。また1918年11月にシェーンベルクは、ベルクやウェーベルンと共に「私的演奏協会」を設立した。これはマーラー以降の現代作品を納得のいく演奏で紹介誌、関心のあるものだけが聴き、会費も能力に応じて支払う。批評家は閉め出す、というものだった。21年末までのべ117回のコンサートが開かれ、154曲が353回演奏された。続行不可能になったのは戦後のオーストリアの猛烈なインフレーションのためだった。(4)12音技法の完成と亡命
シェーンベルクの名声は国際的なものとなり、1920年には国際マーラー連盟の会長に選出され指揮の仕事も増えた。しかし重要なのは12音技法の考案である。弟子のルーファーは、彼のその着想を得たのは1921年夏のことだという。当時は多くの作曲家が無調の作曲する方法を考えていた。彼は自らの方法を「相互の関係のみに依存する12音の音に作曲の方法」と定義した。実際にこの方法による作品が完成するのは《5つのピアノ曲》Op.23(1920)、《セレナード》Op.24(1923)、《ピアノ組曲》Op.25(1923)であった。1923年に妻が死去し、関心は再び宗教的な方向を取り、《レクイエム》の台本を執筆。しかしこれは作曲されなかった。1924年に弟子のヴァイオリニスト、ルドルフ・コーリッシュの妹ゲルトルートと再婚。この結婚でもうけた娘はイタリアの前衛作曲家ルイジ・ノーノと結婚した。1925年、前年に死去したプロイセン芸術アカデミーの教授フェルチョ・ブゾーニの公認に指名され、翌年ベルリンに赴く。これに続く時代はシェーンベルクの生涯でもっとも恵まれた時代であり、《弦楽四重奏曲第3番》Op.30(1927)、《管弦楽のための変奏曲》Op.31(1926)、《映画の一場面への音楽》Op.34(1929-30)などや未完に終わった自作の台本によるオペラ《モーゼとアーロン》(1930-32)が作曲されている。これは死後の57年6月にステージ初演され、その後現代オペラのレパートリーのひとつとされるようになった。
しかし1930年頃からベルリンの気候はシェーンベルクの喘息を悪化させ、1933年のヒトラー政権の樹立とともに、シェーンベルクはベルリン芸術アカデミー教授の席を追われ、同年5月ベルリンを去って一家でフランスを経てアメリカに亡命した。パリでは改めてユダヤ教徒に戻っている。
(5)アメリカ時代
1933年10月、シェーンベルクはボストンのモールキン音楽院と翌年2月から5月までの教授職の契約を結び、10月31日、ニューヨークに到着する。しかしモールキン音楽院は極めて小規模の音楽院であり、授業内容も初歩的なものにせねばならなかったし、毎週、ニューヨークの分校にも通わねばならなかった。東海岸の冬は厳しく、度々、健康を害したので、1934年秋ロサンジェルスに移住。1935年から36年にかけては南カリフォルニア大学で教え、1936年にはカリフォルニア大学ロサンジェルス校の教授に迎えられ、1944年9月、70歳の定年まで在職した。この頃には喘息に加えて糖尿病と視覚障害が悪化していたが、在職期間が短かったため年金は少なく、個人レッスンを続けなければならなかった。1946年8月には心臓発作を起こし、心拍が停止したが、どうにか蘇生することができた。1948年一時健康を回復しサンタバーバラで授業を行ったが、以後はひきごもりがちになり、1951年7月13日永眠した。没年はイスラエル建国の年であり、シェーンベルクはイスラエル音楽アカデミーの名誉会長に選出されている。アメリカ時代には語り手・ピアノ・弦楽四重奏のための《ナポレオンへのオード》Op.41(1942)、語り手・男声合唱・管弦楽のための《ワルシャワの生き残り》Op.46(1947)などの作品で、ナチズムへの激しい抗議を行った一方、《現代詩編》など一連の宗教的作品が作曲された。
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