「ヨーロッパ文化」講義録vol.16

〜サン・テグジュペリとジャン・コクトー〜

目 次
(1) サン・テグジュペリ (2) 『星の王子さま』 (3) ジャン・コクトー (4) 映画
 

(1) サン・テグジュペリ(1900?〜1944)
 アルベレス著『サン・テグジュペリの生涯』78頁には、身長は184cm、肩幅ひろく、骨格もたくましかった、とある。
航空兵(また民間飛行士)であった。「人間のもちうるすばらしい微笑の持ち主」

 ヒットラーのドイツがズデーデン地方の割譲を要求、ミュンヘン協定を結び、一途に勢力をのばしていた時代である。「自己犠牲、危険、死に至るまでの忠誠が人間の高貴さを作る」と主張したサン・テグジュペリは実際に、その後のナチズムの侵入に対して、闘うパイロットとして復帰した。負け戦で米国に亡命し、米軍のノルマンディ作戦にそなえて、北アフリカに進駐。そこから偵察機操縦士・少佐として活躍。軍のパイロットとしては19才から25才までの青年であることが常識であり、43才の軍人パイロットとは型破りだった。しかし、『人間の土地』によって米国で大人気を得ていたサン・テグジュペリはあちこちに働きかけて、偵察隊に入隊した。幾たびもの偵察の任務をりっぱに果たして後のこと、1944年7月31日、ドイツの戦闘機に撃墜され、帰らぬ人となった。飛行時間6500時間、うち夜間飛行時間1300時間だった。サン・テグジュペリの飛行機が撃墜されるのを見たという米軍パイロットの証言もある。


上左:パイロット、サン・テグジュペリ
上中:飛行士姿のサン・テグジュペリ
上右:「パリーサイゴン記録飛行更新に失敗してリビア砂漠に墜落1935年12月」 (『サン・テグジュペリの生涯』97頁より)

 堀口大学訳『人間の土地』新潮文庫125頁には奇跡的に無傷で助かった時の様子が記されている。死と紙一重の事件をサン・テグジュペリはこう記している。

 「ここでは、過誤にたいして全然赦免がない。ぼくらは神の分別に一身を委ねているわけだ」
追い風で300キロの飛行速度が出るようになった。空中から見る地上の景色。地上の人間の生活を距離をおいて見る。空中での浮遊感。現在のロケット航空機とちがってプロペラ機では星は自分たちの仲間のように見えた。それでサン・テグジュペリの小説では星が非常に親しく描かれている。『夜間飛行』 (1927)に収録されている『南方飛行』の最後のほうで下士官に「君は星の見張りをする軍曹なんだね?」と主人公が尋ねるユーモラスな場面がある。省略。

 新潮文庫刊『人間の土地』(1939)の終わりの部分で、「数年前の体験」としてフランスを追われるポーランド人労働者と同じ列車に3日間乗り合わせたときのことをのべている。

 「ぼくはある一組の夫婦の前に腰をおろした。その男と女の間に、子供はどうやらわずかに窪みを作って、眠っていた。子供は眠りながら寝返りを打った、するとその顔が、燈火の前に浮かびあがった。おお、なんと愛すべき顔だろう。この夫婦から、一種黄金の果実が生まれ出たのだ。この鈍そうな二人の人間から、美と魅力の傑作が、生まれ出たのだ。ぼくはこのつややかな額、この愛すべき唇のやさしい表情の上にうつむき、独り言をもらした。これこそ音楽家の顔だ、これこそ少年モーツァルトだ、これこそ見事な生命の約束だと。伝説のなかの星の王子 Le petit princeたちも、この少年となんら変わることはなかった。保護され、いつくしまれ、教育されたなら、この少年になりえないというものはなに一つないはずだ。・・・ぼくを悩ますのは、その凹でも、凸でもなく、醜さでもない。言うなら、それは、これらの人びとの各自のなかにある虐殺されたモーツァルトだ」
 

(2) 『星の王子さま』
 表紙絵と中に描かれている絵はすべてサン・テグジュペリ自身が描いたもの。表紙絵に描かれている複数の星とその位置が、60年に一度の周期で形をなす2000年11月初旬の星の位置と同じである、との新説が2000年12月2日付朝日新聞夕刊で紹介された。『星の王子さま』の講義(2000年11月8日)をして間もなくだったので、ぼくにはこの記事が非常に興味深かった。

左:『星の王子さま』表紙

 それによると、今から60年前の1940年に木星、土星、おうし座の一等星アルデバランが三角形をつくった。サン・テグジュペリは『星の王子さま』を1942〜43年に書いたといわれているが、星座に詳しかった作家は『星の王子さま』の表紙絵で、この三角形をつくった三個の星を他の天体と区別して、星型ではなく円く描いているという。よく見ると表紙絵に星は10個描かれているが、三角形をなす三個の星だけが球体として描かれている。サン・テグジュペリは明らかにこれを意識していたと思われる。新聞記事には11月初旬に撮影された星の写真と『星の王子さま』の表紙絵とが並べて比較されている。
 そしてこの事実を突きとめたのが、福島県三春町に住む天文ファンで、文学研究者の椚山(くぬぎやま)義次氏(51)。11月11日に福島大学で行われた比較文学会で椚山氏が「サン・テグジュペリ『星の王子さま』の謎をとく」として発表した、と記事にある。これは実に画期的といってよいほどの発見ではなかろうか。


上左から:権力を持つ王様、ウヌボレ男、実業家と資産家、街燈火と点灯夫、バオバプの樹(人間の尊大さやなにやを象徴している)

蛇や狐との出会い
 砂漠の狐が王子に、かんじんなことは目には見えない、心でしか見えない、それがまた大人には分かっていない、と言ってきかせる。「人間というのは、このたいせつなことを忘れているのだよ」
 1938年10月からパリ=ソワールに書かれた『平和か戦争か』の一節「人生に意味をあたえなければならない」 (みすず書房「サン・テグジュペリ著作集6巻」174頁)

 上述の「人生に意味を」でサン・テグジュペリは「それは冒険物語となって揺籃でねむる子供の意識のなかにまで、まき散らされる」と記しているが、ここにはすでに次の童話 『星の王子さま』の揺籃(萌芽)がある。というのは『星の王子さま』の王子は「子供」であり、しかも周囲から「冒険家」として見られているからである。サン・テグジュペリは戦死する前に、パリのホテルで大人のための童話ともいうべき『星の王子さま』を執筆し、できあがったばかりの原稿をたまたま訪れてきた彫刻家ジャコメッティほか数人の仲間に みずから朗読して聴かせた
 

(3) ジャン・コクトー(1889〜1963)

「かんじんなことは目には見えない、心でしか見えない、それがまた大人には分かっていない」

 ジャン・コクトーが『美女と野獣』で言いたかったことも、サン・テグジュペリの前述の言葉に通じる内容だ。野獣の恐ろしい貌の下には目に見えないものが隠されている。ふつうの人間には見えないその高貴なる精神を、ベールは見た。

右:ジャン・コクトー

 ジャン・コクトーは詩、小説、演劇、オペラ、バレエ、絵画、という多彩な芸術で活躍した20世紀前半のもっともセンスある総合アーチスト。その特質は軽さと、軽さの裏にある死との共存感覚。えり抜かれた表現と文体には『クレーブの奥方』やスタンダールの『赤と黒』の系譜に繋がる緊張と緊密の詩学があり、フランス文学の伝統の深さを思わせる。詩的なアフォリズムがすばらしい。コクトーは詩人としては、19世紀のマラルメ、ボードレール、ランボー、20世紀のヴァレリー、ボヌフォアの系譜の中で二流の位置しか占めていないが、ロシア・アヴァンギャルドの講義でのべた詩的言語(この場合はアフォリズム)としての散文の領域では、すばらしい才能を発揮している。ジャン・コクトーは常に定型に納まり切れぬ斬新な技法を展開して派手に人目をひいたために、アカデミズムの伝統のつよいフランスでは、特定の人びとからしか高い評価を受けなかったとみえて、57才で書いた『存在困難』(邦訳名にならったが、本来なら『生きることの難しさ』とでも訳すべきだろうか)では自分が「いかに危険な綱渡りを演じてきたかを」ふりかえっている。コクトーのような文学界の国際的スターにも孤独と孤立感と危機意識があった。 (第17回講義録「サルトルとカミユ」にて詳述)

ジャン・コクトーとバレエ
 このテーマについて、最も入手しやすい文献は高橋洋一『ジャン・コクトー』講談社現代新書であろう。
 まだ若かったジャン・コクトーはディアギレフ率いるバレエ・リュスから強烈な印象をうけた。ストラヴィンスキイ作曲による『春の祭典』に衝撃をうけ、さらにディアギレフから「なにかぼくを驚かせるような作品を創ってみろ」と言われたのに奮発して書いたのが、有名な『パラード』 (1917年5月初演)である。作曲はエリック・サティ。『パラード』はスキャンダラスな成功を得た。もっともそれ以前に、コクトーはディアギレフからバレエの台本を頼まれて『青い神』 (1912)を書き、総合芸術と音楽への関心を強めていた。サティと知り合い、ミヨーやプーランク、オネゲルらのフランス六人組を彼自身がオルガナイズ、やがて彼らとともに舞台芸術を展開した。これはバレエ・リュスの中期、後期とも関係している。この時代はまた第一次大戦前の ベル・エポック(美しい時代)からの決別の時代でもあり、コクトーがパリの芸術思潮にあたえた影響は大きい。ジャン・コクトーの芸術がジャンルを超えて絢爛と輝いたのは、多くの人脈に支えられていたからでもある。

コクトーの多彩な人脈


上左から:マレーネ・デートリヒ、グレタ・ガルボ、シャネル、ディオール

上:ラディゲ

上左から:ジャン・ジュネ、サラ・ベナール、オーソン・ウェルズ、アポリネール、ルキノ・ヴィスコンティ、エリック・サティ

 その他、ニジンスキイ、アンドレ・ジッド、プルースト、フランソワーズ・サガン、サルトルとボーヴォワール、ストラヴィンスキイ、ブラック、ダリ、ピカソ、リファール、ジャン・マレー、フランス6人組、トリユフォー、ゴダール、ローラン・プチなどがコクトーと交友をもっていた。

ジャン・ジュネ、サルトルとの関係
 監獄と犯罪の地下の世界を徘徊してきたジャン・ジュネが『花のノートルダム』の原稿を、ジャン・コクトーに見てもらいにきたのは、第二次大戦中の1943年である。最初は小説があまりに反道徳的で、また戦争中でもあったので、地下出版で出され、戦後やっと公刊された。コクトーはジュネが窃盗罪で終身刑を言い渡されそうになったとき、彼を 弁護して、救いだした。哲学者のサルトルも彼らと交わり、『殉教と反抗』という大著でジャン・ジュネを聖ジュネと呼び、しかし呵責なきジュネ解剖をおこなった。その際、政治活動に参加していたサルトルは「アンガージュマン」の立場からジュネとコクトーを「過去追慕主義者」として批判した。それへのコクトーの反応については第17回講義「サルトルとカミユ」で触れよう。

 サルトルはジャン・コクトーやジャン・ジュネと親しく交わり、『殉教と反抗』でジャン・ジュネを聖ジュネともちあげながら、彼を徹底的に解剖してみせた。(この主題については次の講義でふれる)
 

(4) 映画
映画『美女と野獣』 (1947)

 第二次大戦後、ジャン・コクトーは子供のときに読んだ物語を念頭におきながら、この映画を制作した。原作はフランス8世紀の女性童話作家の妖精物語。コクトー少年はすっかり夢中になったというが、映画化を熱心に求めたはジャン・マレーであり、マレーを喜ばせるために、またジャン・マレーという得難い個性を映像化するために、コクトーが映画化した。パリ郊外の14世紀の古城を舞台に選び、徹底的に装置に懲り、非現実的な世界を、第二次大戦後の新しい感覚で映像化している。
 当時の国際的な人気俳優だったジャン・マレーが野獣と、野獣退治におもむく村の青年の二役を演じた。 薔薇、鍵、手袋、鏡、白馬がこの映画のキーワード。『美女と野獣』の筋は次のとおり。

 破産に瀕していたある実業家が夜、森で道に迷い、ひなびた不思議な城館で憩いをとる。明け方三女の希望を果たすべく、庭園の薔薇の茂みで一輪の薔薇を摘み取ると、城館の主らしい王位姿の野獣が出てきて、わが館で薔薇を取った者は死に価すると宣告。実業家の告白を聞くと、野獣は、では娘を代わりによこせと言う。三女のベールは兄や姉たち二人とちがってたいへん性格のいい娘で、家では彼女だけが家事を切り盛りしていた。この三女が城館から派遣された白馬にまたがって、森の道を運ばれる。不安な彼女の前に豪華な城館があり、野獣が姿をあらわす。王の衣服をつけたライオンのような野獣 BetteはベールBelleにこう言う。ベールが毎晩食事をする7時に食堂を訪れ、彼女が野獣の自分を愛することはできないか、妻になってくれる気はないかどうかを尋ねさせてくれ、と乞う。

 ベールは、野獣の愛をその醜さゆえに受け入れることはないと冷たく言い放つ。それでも野獣が優しい心をもつ毅然とした紳士であることも理解する。しかし野獣は獣を殺して食べている。川の水を獣のように口をつけて飲んでいる。ベールは野獣の王としての誇り高さには惹かれ、哀願する野獣ベートを哀れにも思うようになった。だが彼女は野獣の問いに答えて、アヴノンという兄の友人をひそかに愛していると明かす。

 妖精たちにかしづかれた何不自由ない生活ではあるが、ベールは「奇跡の鏡」を見て愛していた父が病気であることを知り、父親に一目会いたいと野獣に、今度は彼女が哀願する。条件付きで1週間、彼女は野獣の手袋と財宝館の鍵を野獣から信頼の証としてもらい白馬で、病気の父親の元に戻ってきたので、父親の病状は回復に向かう。1週間内に戻らないと野獣は死ぬ運命にある。 兄や姉たちはベールから話を聞き、鍵を盗み、兄とその友人に渡す。

 期限がくると森の城館から迎えの白馬が訪れ、ベールの替わりに兄と、ジャン・マレー演じるその友人が武器を持ち馬に乗って森へおもむく。ベールも鍵が盗まれたことに気づき、手袋を使って兄たちより一足先に城館に到着。見ると帰還の期限が過ぎたために野獣が泉の淵で死にかけている。ベールは自分が借りていた手袋をはめさせ、再び甦らせようとするが、すでに時おそし。他方、白馬で城館にたどりついた兄と友人は、野獣とベールの姿を地下の世界にみいだし、ベールの兄の手を借りて、ジャン・マレー演じる友人が地下に降りようとしたとき、城館の妖精・守護神の矢を受けて即死する。そのとたん、ベールの愛で、魔法がとかれ、魔法にかけられていた野獣とジャン・マレーの像がかさなり、死者が立ち上がってジャン・マレーそっくりの別人の王子が、ベールに手をさしのべる。両親たちが妖精の言うことを聞かなかったために、息子の自分が野獣にさせられていたのだと実状をあかす。二人はめでたく王子の国へと向かう。  

 ジャン・コクトーは「妖精ぬきの妖精物語」を書こうとした。映画が出現した頃に生まれた彼は、ダリやルイス・ブルニュエルなどシュルレアリスムの映画『アンダルシアの犬』『黄金時代』を誰よりも早く評価し、サイレント映画やチャプリンの『黄金狂時代』やエイゼンシテインの『戦艦ポチョムキン』を傑作として紹介していた。エイゼンシテインがパリに来たときは知己になった。ジャン・コクトーは映画で自分の詩を表現したいと考えた。

 ジャン・コクトーは自分の映画を娯楽映画としての「シネマ」とは違うジャンルのものとして「シネマトグラフ」と呼んだ。それはリュミエール兄弟が映画技術を開発した頃の映画の呼び名である。シネマトグラフ、『月世界旅行』などの幻想的な、またサイレント時代の映画に刺激をうけて育ったからである。コクトーの作品には古い城館や不安や恐怖や聖なるものとの結びつきやロマン主義というゴシック・ロマンスの伝統があり、コクトー自身がその世代の一員だったシュルレアリスムの流れがくみ取れる。『美女と野獣』は「人が語る夢ではなく、一種の催眠の力を借りて、私たちみんなが同時に生きる夢」であるとコクトーは語っている。 (以上、高橋洋一『ジャン・コクトー』169頁)

映画『恐るべき子供たち』 (1950)
 これは小説『恐るべき子供たち』(1929)を映画化したものだが、登場人物たちのせりふと同時に、小説『恐るべき子供たち』のあちこちを朗読するジャン・コクトー自身の言葉が挿入されている。監督がコクトーの声を入れることを思いついた。映画は子供の「夢」の世界を描いている。その夢は非現実の世界への移行であり、夢の世界は、現実の通俗的な感情や心理を越えて、死と境を接する非現実的な領域である。

4行イラスト『恐るべき子供たち』の図解

 異常な姉弟愛と、生に対するエリザベートの否定的態度。ダルジュロス が雪合戦でポールに重傷を負わせる。のちに就職して東方との貿易に従っているダルジュロスが商品としての毒物をジェラールにもたせる。以前ポールが毒に関心を抱いていたからである。この毒がポールの死とエリザベスの自殺を招く。最終場面はまさにゴシック風の昇天の場面である。

小説『恐るべき子供たち』 (1929)
 夢遊病状態や催眠状態は小説『恐るべき子供たち』でも意識的な技法として用いられている。これは「自動記述」や催眠作用、無意識の領域を尊重したシュルレアリスムの世界である。伝統への帰属と前衛の展開がコクトーの作品なかで厳しい均衡をうみだしている。ジャン・コクトーはアンドレ・ジッドの主題をひき継いで未成年から青年にかけての「子供たち」を描いている。ジッドの登場人物たちは性格形成という「教養小説」ふうの形象にどっぷり浸っているが、コクトーの人物たちはこれとは全く正反対に自己破壊的である。

 コクトーは阿片中毒にかかってパリ郊外の病院に1928年末から翌29年3月まで入院中に、精神錯乱の過程をシュルレアリスムの自動記述法で活字にした。それが『阿片』である。ジャン・コクトーは小説『恐るべき子供たち』を時代的な現象として扱っているが、同時に、阿片中毒者として精神病院に入院したジャン・コクトーならではの作品でもある。

図解  

 

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