(1) 時代背景
19世紀末から20世紀の初めにかけて農民一揆や革命運動が盛んになり、革命グループのテロル、労働者のストなどで、帝政ロシアは危機に瀕していた。1905年1月、司祭ガポンに率いられた労働者ら市民が皇帝への誓願行進を決行した。ロシア政府はこれに残虐な発砲で応じ、のちに「血の日曜日事件」と呼ばれる惨事となった。それでも皇帝政府は10月には「10月詔書」を出して、市民、労働者に言論出版の自由をを認める譲歩を行った。しかし、革命への気運を収まらず、ついに1917年、レーニンを指導者とする共産主義政権が成立する。当初は社会革命党と社会民主党の実力は伯仲していたが、まもなく民主党が指導権をにぎり、さらに民主党のレーニン率いるボリシェビキが権力を掌握する。
革命事件にロシア・アヴァンギャルドの運動は大きく係わっていた。詩人マヤコフスキイは1908年、17才で革命運動に身を挺し、二年間投獄されている。「戦艦ポチョムキン」の制作者エイゼンシュテインも17年の革命に熱中し、以後の内戦で赤軍(共産主義ボリシェビキ政府)の兵士として戦闘に参加している。このようにロシア・アヴァンギャルドが政治革命に参加したのは、アーチストたちが社会と芸術の制度に敏感に反応し、二つの制度を破壊することが、彼らにとって楯の両面にすぎなかったからである。もちろん、すべてのアーチストが革命に賛同したわけではない。ダヴィード・ブルリュークは凄惨をきわめる内戦を避けて極東のウラジオストークで文化活動を実践し、内戦終了後は日本に滞在し、事情あってのち米国に移住する。フレーブニコフも内戦にまきこまれることを避けて、国内を放浪し、内戦終了後に「野たれ死に」同然の死に方をしている。
しかし一般的には、ロシア・アヴァンギャルドが実践を試みた「芸術の革命」(伝統的な芸術の制度破壊)は、当初「革命の芸術」(社会革命の結果生じる活性的な芸術)と重なっていた。
(2) ロシア未来派の誕生
ロシア・ルネサンスとアヴァンギャルド
配布した図譜で見たように、ロシアでは早くから、さらにシンボリズムを深く哲学的宗教的への方向性と、反シンボリズムに向かう方向性が芽生えていた。その一例が1898年にディアギレフやブノアの手で創刊された『芸術世界』である。また20世紀初頭のシンボリズムを代表する『ペテルブルグ』の作者アンドレイ・ベールイの 「言葉は人間をとりまくものとの闘いである」という言語観はすでに、ロシア・未来派の言語論の先駆をなしている。右:ダビド・ブルリューク、クルチョーヌイフ、マヤコフスキイ、フレーブニコフら
ロシア未来派グループの発生
ダヴィード・ブルリュークやクルチョーヌイフ、フレーブニコフなどがブルリュークの別荘で論議していた時期は未来派誕生の胎動期である。1904〜9年にダヴィード・ブルリュークは「天秤座」という、シンボリストのベールイらを抱えてはいるが、新しい傾向の雑誌を出していた。ベルジャーエフ、シェストフ、フィロソフォフ、フロレンスキイ、ブルガーコフらの哲学・神学者、イワーノフ、メレジコフスキイ、ギッピゥス、ベールイ、ブローク、宇宙論のツィオルコフスキイやディヤギレフ一派など、あらゆるジャンルでの多彩な活動が行われた。1900〜22年の間の文化運動をフランスのピエール・パスカルは「ロシア・ルネサンス」と名づけている。未来派宣言『社会の趣味への平手打』 (1912)
1906〜1909年には「ダイヤのジャック」グループがあり、ブルリューク兄弟、カンディンスキイ、ゴンチャローワらがこれに参加していた。またダヴィド・ブルリュークとマヤコフスキイ (左肖像)が、モスクワの美術学校で意気投合し、反制度的な共闘の姿勢を打ち出していた矢先に、1909年イタリアのマリネッティがいち早くフランスの新聞「フィガロ」で未来派 =futurismo宣言を行った。ロシアの前衛的な青年たちも、負けてはならじと、即、未来派を立ち上げ、1910年「裁判官の飼育場」を刊行し、1912年には有名な 『社会の趣味への平手打ち』を共同声明した。彼らは自分たちの自立性を自負していたので、訪露したイタリア未来派のマリネッティに強く反発した。ロシアで未来派(フトゥリズム)という単語が公認されるようになったのは、1912年頃マヤコフスキイが使ってからで、現在のロシア語辞典には一つの単語として掲載されている。しかし、ロシア未来派の青年たちはまもなくイタリア語発信のフトゥリズムを避けて、ロシア語でブージェトリャーニン(未来を拓く人)という新語を自分たちの流派に当てはめた。 とはいえ現在の文献では、例えば「17年の革命前のロシア未来派は立体未来派で、革命後は構成未来派である」というように、「フトゥリズム」と呼ばれている。
『社会の趣味への平手打ち(1912)』は、伝統的な言語の「制度」を破壊することで、言語の自立を試みている。と同時に「脂肪ぶとりのブルジョア」への侮蔑がのべられているイデオロギー性にも注目しよう。
以下は未来派の言語実験の一例。百合の花を意味するロシア語リーリアをエウイに置き換えた。自動化した陳腐な表現や単語を切り捨て、措辞を無視し、新造語によって対象に対する新たな視線を獲得し、意味されるものの表現手段ではない自立した言語自体の世界を確立しようとした。水野忠夫によるその邦訳を下に紹介する。
「街から街へ」
ま
ち。
猛犬たちの
顔は
年齢よりも
きびしい。
鉄の駒を
越えて
駈けている家々の窓から
最初の立方体がとびだした。クルチョーヌイフは「超意味言語」 という理論を実践に移し、意味の単なる伝達手段を越えた言葉それ自体の、そして人間存在の呼気を思わせるような鋭い詩を書いた。
上:クルチョーヌイフのロシア語詩ブルリュークの詩は日本語で読んでも、読者の意表をつく、すばらしいイメージが伝わってくる。
このように未来派は「詩的言語」の実験において、使い古され手垢のついた言語を解体し、新しい響きをもつ言語芸術を創ることを試みた。すでに19世紀70年代にマラルメが問うていた言語のあり方が、20世紀のアヴァンギャルドにおいて、時代思潮の形をとって顕れた。
上:イラストキャプション ブルリュークの詩
(3) 「物語の解体」 ロシア・アヴァンギャルド版
「物語の解体」については前にのべたが、ロシア・アヴァンギャルドにおいても例外ではない。オシプ・ブリークは「プロットの解体」 (国書刊行会『ロシア・アヴァンギャルド』8巻)という論文で、つぎのように言っている。「純文学の世界で見られる興味深い現象はプロットからの離脱である。プロット散文では作品の関心が劇の展開と心理的葛藤の展開に集中していて、地方的なディテールは2次的な背景にすぎなかった。プロットは個々の観察を一つの文学全体に総合するための接着剤の役割を果たすすぎなかった」
「消費者の関心は芸術作品よりは現実の素材のほうに向いているので、芸術作品は現実の素材を伝達する方法である。もちろん消費者も芸術の質の高さを求めているが、それは素材伝達の正確さによってきまる」
街頭への進出
未来派の若者たちは舞台で詩を朗読するだけでなく、奇態な服装をして街頭で挑発も含めたさまざまなパフォーマンスを行った。
上:電車を飾るアーチスト (左)と、アジプロ列車の内部 (右)ロシア革命後、直ちにマヤコフスキイは通信社 「ロスタの窓」で働き、アジテーション・プロパガンダ(情報宣伝活動)用ポスターのために詩と絵を書いた。
十月革命から1年後、記念の催しの一つとして、革命ロシアで初めての演劇台本がマヤコフスキイによって書かれ、メイエルホリドがこれを演出した。この戯曲 『ミステリア・ブッフ』は旧約聖書の「ノアの方舟」をもじって、労働者の解放を主題にとりあげた。マヤコフスキイは「『ミステリア・ブッフ』は革命の道である」と言っている。
(4) ダヴィド・ブルリューク(1882〜1967)
ブルリューク(右写真)はマヤコフスキイより11才年長で、ミュンヘン、パリにも3年間遊学し、1911年モスクワの美術学校でマヤコフスキイと知り合った頃には、ある程度名の知れた画家だった。詩人フレーブニコフの親友であり、語学の才にもたけていたので、 マヤコフスキイに大きな影響をあたえ、未来派の決起に中心的な役割を果たした。
1917年の革命勃発時ウラルに居たブルリュークは、18年にウラジオストークに行き、妻と二人の子供をかかえて、労働者街の、家主に見捨てられた理髪店に住みつき、詩を書き、絵の制作に打ち込み、展覧会を開き、アヴァンギャルドふうの奇態な格好で歩きまわった。かれの言動には多彩で非凡な才能があふれていた。ウラジオストークでアーチストたちはグループ「創造」を結成し、言論活動をも行ったが、それは「諸干渉国や反革命軍の指導者たち、全ロシアの権力をねらうありとあらゆる極東の勢力に可能なかぎりの痛撃をくわえた (ニコライ・アセーエフ「極東の十月」 =国書刊行会『ロシア・アヴァンギャルド』8巻98〜100頁所収)」
ブルリュークもアジテーターとしての才能を発揮した。1920年に来日 、日本の風土になじみ、未来派としての多くの絵を残している。22年日ソ関係が悪化したために、日本人の好意的な忠告に従って、米国に去った。夫人の回想によれば、1920年代の半ばには、ブルリュークも革命政権下でのマヤコフスキイの処遇や、マレーヴィチからの手紙の仄めかしで、革命がどのような道をたどっているかを察知し、米国に居住することを決意した。
左上:「列車の中で」 右上:「田植え」
下:「日本女性」
クルチョーヌイフの戯曲『太陽の征服』
1925年に革命政権による芸術文化グループの管理統制が強まった。無条件の自由な芸術表現をめざしたロシア・アヴァンギャリストたちは、創作方法のさまざまな改変をせまられることになった。妥協する者、粛清する者、亡命する者と分かれるなかで、マヤコフスキイは自己の信念をつらぬいて、自殺した。自殺の3年前、1927年に、当時の事情を考慮すれば、ボリシェビキ政権を無視した驚くべき大胆な発言をしている。これは何を意味しているのだろうか。このときの発言は『回想記というだけでなく』という表題で、『ロシア・アヴァンギャルド8』39頁に収められている。これを読むとマヤコフスキイの『ミステリア・ブッフ』が政権側からいかに批判されたがよく分かる。しかし、問題はそこにあるのではない。驚くべきことはマヤコフスキイがここでサヴィンコフに触れていることだ。
「十月革命の朝、私はいつもサヴィンコフ(作家にして社会革命党テロリスト、ロープシンの本名)やクジミンが舞台のすぐ袖にいるのを見かけたものだ。彼らは聴いていた。舞台では・・・」
サヴィンコフ・ロープシンはテロリスト指導者としても、回想記『テロリスト群像』(現代思潮社)、『蒼ざめた馬』(現代思潮社、岩波同時代ライブラリー)の作者としても、当時の世界に大きな波紋を投げかけたほどの存在だった。また十月革命後は、白衛軍を率い、のちにはパリにあって、反ボリシェビキ活動家のなかで最大の外交家、指導者、情報発信源だった。 ボリシェビキにとっては最も手強い「狡猾な」敵である。レーニンと秘密警察のジェルジンスキイは、レーニン自身の言葉によれば「負けられぬ作戦」をねりあげ、サヴィンコフをパリからポーランド国境に誘いだし、逮捕した。なお、詳細はホームページ上の拙著『「英雄」たちのロシア』序文を参照のこと。
逮捕されたサヴィンコフ・ロープシンがルビャンカ監獄で、拘束中に怪死をとげたのは1925年である。その2年後の27年にマヤコフスキイがサヴィンコフに触れているのは、当時の政治状況からすれば自殺行為ともいえる。さらに表題が『回想記というだけでなく』ということになれば、書かれた内容は27年現在にも関わっている。党と国家即ちスターリンの文化政策に反論や苦情をのべ、その姿勢にはなにやら諦めのようなものすらある。また、マヤコフスキイの作品に対する当局の締付けがどのような経過をへていたか、よく分かる。こうした挑発的な発言をしたマヤコフスキイはすでに自殺への道を辿っていたのではなかろうか。自殺は1930年4月14日。37才。詩人エセーニンの自殺と同じく、マヤコフスキイの自殺は秘密警察による謀殺だったとの説がある。
(5) マレーヴィチのシュプレマチズム
マレーヴィチ(右写真)は未来派の特徴を「速度の美」と「主題の放逐」してとらえ、未来派の「運動の力学が絵画的造形の力学を提起するという思想を生じさせた。」と評価する。しかし、「未来派の努力は報いられなかった。彼らは対象性を清算できなかった。」と批判する。「純粋に絵画的な本質、すなわち無対象的創造への突破口に向けての物の破壊」「平面こそまさに生きている。それは生まれ落ちたばかりである。」マレーヴィチは未来派からシュプレマティズムへ 跳躍する。
さらにマレーヴィチのシュプレマティズムの背景には 宇宙論視点があった。下左:『黒の正方形』1920年代(平凡社マイペディア百科事典より)
下右:『野原の女たち』1920年代(西武美術館「芸術と革命」より)
下左:マレーヴィチ『スポーツマン』(1920〜32)
下右:マレーヴィチ『女性の肢体』(1930)
(6) モニュメント運動
1918年レーニンの直接のイニシアティブでモニュメント運動が始まる。
「第三インターナショナル記念塔」は1920年に模型がタトリンと助手たちによって作成された。パリのエッフェル塔を超える建築物として構想されていた。ペテルブルグの工房で制作されたので、ネワ川の両岸に基盤がかかると考えられていた。塔の中には 部屋が幾つもあった。4度作り代えられた。メーデーの祝祭ではタトリンの模型が車で運ばれ、群衆がそれを眺めた。
最初7メートルの高さにあったものが、1925年のパリ万博に出品された4番目の模型では4メートルに縮小された。
実のところ、「第三インターナショナル記念塔」は建築の実際的な模型というより、 革新のヴィジョンシンボルとして設計され、見る側もそのようなものとして容認していた、というのが通説である。しかし、スペインのバルセロナにあるガウディの魁偉な巨塔を思い出すなら、タトリンの螺旋型をなす「第三インターナショナル記念塔」は単にヴィジョンにとどまらず、実際に実現できたかもしれないし、現代の技術でならば実現できるはずだ。タトリンの記念塔から刺激とヒントを得た現代の建築家がデザインを実行に移すことを期待したい。
お奨め文献
亀山郁夫『甦るフレーブニコフ』晶文社
亀山郁夫『終末と革命のロシア・ルネサンス』
亀山郁夫『ロシア・アヴァンギャルド』岩波新書
水野忠夫『マヤコフスキイ・ノート』中央公論社
水野忠夫『ロシア・アヴァンギャルド』パルコ出版
大石雅彦『ロシア・アヴァンギャルド遊泳』水声社
ピエール・パスカル『ロシア・ルネサンス』みすず書房(1980)
リッペリーノ『マヤコフスキイとロシア・アヴァンギャルド演劇』河出書房
『美術手帖(1982.2)』「ロシア・アヴァンギャルドのデザイン感覚」特集
『未来派』キャロイン・ティズダル他 松田嘉子訳 パルコ出版
『ロシア・アヴァンギャルド(論文集)全8巻』国書刊行会
『ロシア・フォルマリズム文学論集1〜2』せりか書房
『ロシア・フォルマリズム論集』現代思潮社(1983)
『ユリイカ(1983.1)』「ロシア・アヴァンギャルド」特集
『ユリイカ(1985.12)』「未来派特集」
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