「ヨーロッパ文化」講義録vol.12

〜 ダダとシュルレアリスム 〜

目 次
(1) イタリア未来派 (2) ダダの発生 (3) ダダからシュルレアリスムへ (4) シュルレアリスムの芸術
 

(1) イタリア未来派
 1909年2月、フランス語が達者だったマリネッティは、フランスの大新聞「ル・フィガロ」の一面に、『未来派宣言』を発表する。新聞社側も時代の先を読み、宣言をセンセーショナルな社会現象の記事として扱った。というのもイタリア未来派が自分たちの信条の具体的なトレードマークとして車を持ちだしたからである。速度の美学がうち立てられたのだ。

写真:イタリア未来派

 1899年に「自動車」のスピードが100km/hを超えた。それからラリーが始まり、1903年にパリ〜マドリード間ラリーで初めて105km/hが出て、自動車が一番早い乗り物であることが証明される。マリネッティの宣言が行われる1909年には、フランス人が200km/hの速度を記録した。(以上、塚原史『言葉のアヴァンギャルド』講談社現代新書に拠る)

 「宣言」は、「我々は歌うだろう。・・・煙を吐く蛇をのみこむ貪欲な鉄道の駅を」とぶちあげている。
 しかし、どういうふうに「歌う」かを明示できなかった。なぜなら言語に対するアプローチが論理的に出来なかったからである。過去との切断「美術館は墓場だ」まではよかったが・・・。
 未来派という名そのものが良かった。マリネッティのキーワードはラテン語で彼が使用した。「タブラ・ラサ」(文字が消された後の板、の意)つまり現状一掃である。
 マリネッティは1912年に『未来派文学の技術的宣言』で初めて言語的アプローチを行い、例えば「形容詞と副詞を廃止し、シンタクシスを破壊することを宣言。イメージは自動車から飛行機に代わった」とした。
 

(2) ダダの発生
 第一次世界大戦がダダ運動を生じさせたといわれる。ダダとは従来の「美の制度」への大胆な反抗である。ダダが生じた当時のスイスのチューリヒには、第一次世界大戦に反対したり戦争を避けてきた人びと、或いはなんとなく惹かれてきた者たち、得たいの知れぬ、中には本物のやくざもいて、雑多な人種が集まっていた。著名な作家のジェームス・ジョイスや、ヘルマン・ヘッセ、トーマス・マン、リルケ、ユング、レーニンもいた。フランスのある作家はツァラの『ダダ宣言』は亡命中の革命家レーニンが当地で書いたのだとさえ言っている。(塚原史『言葉のアヴァンギャルド』講談社現代新書に拠る)

フーゴ・バル
 ダダの創始者の一人フーゴ・バルはドイツで反戦運動に参加、追われる身となり、1916年チューリヒに恋人のヘニングスとともに逃亡する。ヘニングスは女優、詩の朗読者で、ドイツでは偽の旅券づくりを手伝い、拘置されたこともあるが、今度は恋人のフーゴ・バルとの逃避行のために自分たちの偽旅券を作ってルーマニアからチューリヒへと逃げた。

 1916年2月5日「キャバレー・ヴォルテール」という名の文学キャバレーを開いた。
「まだまだ金槌で釘を打ったり、ポスターを張ったりしているときに、なんとなく東洋人風の4人のルーマニア人がやってきて、自己紹介し、話し合いがついた」
 4人の青年のなかにトリスタン・ツァラとマルセル・ヤンコ兄弟がいた。その日の店開きの「夕べ」にはすでにトリスタン・ツァラが自作の詩を朗読し、ヘニングスと他の女性がフランス語とデンマーク語の歌をうたい、バラライカ楽団がロシアの歌と踊りを披露し、これがダダ運動の年譜上の初日となった。トリスタン・ツァラは、一説では父親の配慮で、勃発した第一次世界大戦の徴兵から逃れるためにチューリヒに留学したとある。

左:「キャバレー・ヴォルテール」(マルセル・ヤンコの油彩画『時代からの逃走』より)

 塚原史『言葉のアヴァンギャルド』によると、そのトリスタン・ツァラ(左写真)が1916年3月29日に開いたイベントこそが、ダダの記念碑的な出発点である。ツァラの考えついた同時進行詩『提督は借家を探す』をヤンコの英語、ヒュルゼンベック(医学生)のドイツ語、ツァラのフランス語で朗読し、これに太鼓や口笛やルルルルという擬音(オノマトペ)が伴い、「混線した国際電話のような印象を与えた。」最後に「提督は何も見つけなかった」と、この台詞だけ一同がフランス語で叫ぶ。トリスタン・ツァラの試みは言語の「線状性」の限界をうち破ることにあった。

 1916年3月31日、トリスタン・ツァラとヒュルゼンベックは図書館にあったアフリカの詩から『黒人の歌』を描き、ヒュルゼンベックのリズミカルな太鼓で、ツァラがアフリカ人の詩を原語で朗読した。これはやがて身振りを伴い、ダンスへと発展し、チューリヒの舞踊学校と作曲家らを刺激し、彼らに新しい舞台をあたえた。つまりダダは単に文学にとどまらず、ダンスと音楽という芸術領域を拡げることにも貢献した

 フーゴ・バル、マシュー・ゲール『ダダとシュルレアリスム』(岩波書店2000)は、フーゴ・バルの『時代からの逃走』に直接依拠して、 1916年5月末にフーゴ・バルが催した周知のイベントを重んじ、高く評価している。
 その日、フーゴ・バルは立体派の仮面をつけて「ガジー ベリ ビンバ ベリ ビンバ グランドリディ ラウラ ロンニ カドリ・・・」といった、意味の伝達を無視した音響詩を長々と続け、満員の聴衆にセンセーションを起こした。
 『時代からの逃走』によれば、その際フーゴ・バルは掲載されているイラストのように、外観の滑稽さを故意に強調した。

右:フーゴ・バル『時代からの逃走』(みすず書房)の表紙写真

 また、『ダダとシュルレアリスム』には立体派的な円筒の帽子や胴体や動きのとれないズボンなどの色彩の説明と、「円筒の下で足が動かせなかったので、身体を観客に見つからないように運ばれた」とある。学生の前での音響詩 「ガジ ベンリ ビンバ」の朗読。

ダダ運動とロシア芸術
 ダダとロシア文化は密接な関連をもっていた。「キャバレー・ヴォルテール」の初日にロシア民謡がバラライカで歌われた程度のものではなかった。チューリヒにはたくさんのロシア人がいた。その一人がチェーホフの短編を朗読し、スクリャービンやラフマニノフが演奏された。タダイストたちはカンディンスキイからロシア・アヴァンギャルドの動きも聞いていた。
 フーゴ・バルは相当な読書家で、19世紀のロシアについても詳しい知識を持っていた。『時代からの逃走』は主としてダダ時代の日記(1916年)だが、ロシアに関する言及、固有名詞の頻出度がひじょうに高い。チャーダエフ、ソロビヨフ、メジジュコフスキイなどのロシア思想にもふれ、カンディンスキイについては展覧会や講演会を催している。1916年3月4日には「ロシアの夕べ」を開いた。単に教養としてではなく、フーゴ・バル自身がロシアに強い関心を抱いていたので、「キリスト教精神のルネサンスはオリエントから訪れる」と記している。

 「ダダ」という言葉はフランス語では幼児の玩具、ドイツ語では「ここに」という意味、ルーマニア語とロシア語では英語のyesにあたる肯定語である。のちにダダ運動に参加したハンス・リヒターはダダ運動のダダはスラブ語から発生したと信じ、たいへん面白い解釈をしていた。

 1922年にレーニンによって追放されるロシア・ルネサンス期の代表的な哲学者ベルジャーエフは、『ルネサンスの終わり』という論文で、未来派を神と人間の一体像を破壊するルネサンス終焉の実験者として、次のように断裁している。

「未来派は全一性のイメージを自然と人間ではなく機械のなかに求める。かれらは統一された全一性を機械的に解体する運動に掴まえられている。・・・未来派の詩も絵画とおなじく人間精神を解体し、魂のなかにおなじく新聞記事やガラスの破片、靴底をはめこみ、魂を自動車や飛行機の騒音に隷属させる。人間精神の解体はすでに印象派に始まっていた。魂は瞬間に分裂してしまった。」フーゴ・バルはこれに応えるかのような自説をこう展開している。「神は死んだのです。ひとつの世界が崩れ落ちたのです。・・・世界の歴史は今や二つの部分に引き裂かれています。・・・中心の、論理の、諸原理が、統一と理性が、支配のつよい神学の要請にすぎないものとして見破られたのです」【つづきはこちらに掲載】

トリスタン・ツァラとフーゴ・バルとの分岐
 1916年8月末ルーマニアが英・仏・露側について参戦すると、トリスタン・ツァラは兵役のための検査を受けざるをえなくなったが、心理学医の面接に対し精神異常を装い、入隊をまぬがれた。
 雑誌『キャバレー・ヴォルテール』創刊号は1916年5月にが出され、フーゴ・バルの文章が巻頭にのった。しかし、フーゴ・バルが予想していた以上に、ツァラたち若者は過激で、翌17年7月「ダダの夕べ」がチューリヒで催され、これがチューリヒ・ダダの幕開けとなる。バルは財政上キャバレーをこれ以上維持できないこともあり、チューリヒを去る。

 1917年3月にギャラリー・ダダが開かれた。黒人を含む協力者がふえ、総合芸術への展開。同年7月トリスタン・ツァラがダダ宣言『アンチピリン氏の宣言』を行い、2週間後に彼の戯曲『アンチピリン氏の第一回天上冒険』が刊行された。これをチューリヒ・ダダの始まりとみなす説もある。

 チューリヒに亡命していたレーニンが1917年のロシア革命で帰国し、権力を掌中におさめる。ロシア革命は20世紀を通しての最大の「物語」現象である。ダダ運動がロシア革命に関心を示していないように見えるのは、自分たちの祖国の命運のほうが関心を奪っていたからだろう。それにしても、チューリヒ・ダダはノンポリだとみなされていて、これがベルリンダダ、イタリア未来派、そしてロシア・アヴァンギャルドと大きく異なる点である。

 1918年7月23日、十月革命の9カ月後、ロシアでは赤軍と「反革命」の白軍が血で血を洗う内戦を展開していた頃、チューリヒでは「トリスタン・ツァラの夕べ」が開かれ、上記の『ダダ宣言1918』が発表された。「ダダは何も意味しない」と。

 ダダ運動が西欧合理主義の一面性に限界を感じたことは事実である。トリスタン・ツァラのダダ芸術理論は画家ハンス・アルプに負う所が多く、そのアルプは東洋の哲学につよく関心をいだくようになった。

ダダのパリ進出
 1918年に第一次世界大戦終了。ダダが欧米に広く知られ、しかも発信地のチューリヒではダダはすでに風化して、最初の勢いをなくしていた。トリスタン・ツァラは自分の語学を生かして、世界文化の中心であるパリへ行きたいと願っていた。米国からノイローゼに治療に来ていたピカビア夫妻が偶然トリスタン・ツァラの雑誌を見て、連絡をとった所から、ピカビアとダダとの共同作業が始まった。ピカビアの絵を見たハンス・リヒターを初めとするダダ推進者の強烈な印象はハンス・リヒター『ダダ』に、「芸術に対する侮蔑と不信への過激な信念を我々につきつけた」と著されている。
 ピカビアはパリで合同作戦を展開しようとツァラを誘い、医学生アンドレ・ブルトンもパリでツァラの到来を待っていた。

左:自転車のピカビア(『ユリイカ』ピカビア特集より)

 1918年11月に大戦終了。平和が訪れたのでトリスタン・ツァラはダダを国外に持ち出そうとする。ダダはニューヨークで、バルセロナで、ベルリンで、すでに国際的な運動になっていた。ツァラが旅券の取得その他で手間どり、一年遅れてパリに到着したのは、1920年1月。
 同年12月に『か弱い愛とほろ苦い愛についての宣言』を発表するが、それはチューリヒ時代に芽生えたダダのコラージュ的発想がはっきりとうちだされている。「ダダの詩をつくるために 新聞を切り抜き 張り合わせなさい」はポスト・モダニズム時代におけるコラージュ論の先駆をなしている。ハンス・アルプの絵はコラージュそのものである。

 ピカビア、マルセル・デュシャン、アポリネールが協力しあった時代(1912〜14)を「プレダダ」とよぶ。
 

(3) ダダからシュルレアリスムへ
 ダダ運動は東欧にひろがり、ベルリンではヒトラーが独裁体制を築くまで活動していて、従来考えられていたよりは長い生命を保っている。パリではエルンストとアルプがシュルレアリスムと結びつくことで、ダダとシュルレアリスムの融合したという見方もある。
 他方で、ダダとシュルレアリスムの決裂という事件もあった。トリスタン・ツァラがパリ到着に12ヶ月遅れたことは単に時間的な「おくれ」にすぎなかったが、ツァラを待ちこがれていたアンドレ・ブルトンにとって、意味するものは、質的な差異の展開だった。というのはトリスタン・ツァラを待つ間にかれ自身は文学実験をミラノ未来派やチューリヒ・ダダとは違った方向に持って行くことになったからである。

右:アンドレ・ブルトン、ルイ・アラゴン、ピカビア

 同じころパリではアポリネールの影響下にルイ・アラゴンやアンドレ・ブルトン、スーポーらのグループができ、3月に『文学』という雑誌を刊行した。創刊号に年長世代であるアンドレ・ジッドやヴァレリイの原稿を掲載しているのは、文学長老たちのお墨付きをもらったことを意味し、年長者に敬意を払っているという印象をあたえた。しかし、のちの過激な変化をたくらんでのことだったのかは、明かではないが、ダダのような「現状一掃」の激しい爆弾と異なることも事実だ。

アンドレ・ブルトンとシュルレアリスム
 アンドレ・ブルトンは医学部の学生だった。1915年に衛生兵として対独戦に徴兵され、やがてベルダン戦場近くの精神神経センターに派遣され、戦場で精神異常をきたした兵士の治療にあたり、 人間の精神の不可思議な深層を目の当たりにし、これを探るためにフロイト理論と精神分析の手ほどきを所長ルロワ(かつてヒステリー研究で有名なシャルコーの助手だった)に受ける。

左:ダダ的アンドレ・ブルトンと看板

 フロイトの論文は1920年に初めてフランス語に翻訳されたので、ブルトンはそれ以前に概説書でフロイトを勉強していたことになる。ついでにいえば、トリスタン・ツァラは精神分析を「危険な病気」として扱っていたので、対立点がすでにそこにもあった。

アンドレ・ブルトンの「自動記述」
 「自動記述」とは、机をはさんで一人が無意識の記述に没頭し、他の一人がこれを観察する実験である。何かについて書こうという意識をもたずに、ペンをとり、手の動くままに書く自由連想。フロイトと同じく無意識の部分の定型化につながる。現代の催眠術による無意識心理の表出につながる。ブルトンは「自動記述」の詩を書いた。

アンドレ・ジッドの反応
 ジッドは「NRF=新フランス評論」誌でダダをとりあげて、明かな差別発言をおこなっている。「聞くとろでは、ダダの連中は外国人でユダヤ人だという。そうではないかと思った」と。ジッドはダダのイベントを見物したときの模様を揶揄的にのべている。かれらの舞台上の行為がぎこちなく、見物客の中から「もう少し動いたらどうか」と声がかかるほどだった。ジッドは自分のエッセイの最後で、「新しい革袋には・・・」と切り出し、フランス国産品、お墨付きのシュルレアリスムを暗示しながら、「新しい酒が収まる」ことを期待している。つまりアンドレ・ブルトンの後押しをしている。ジッドはこのとき51歳「NRF」誌の編集長、ツアラやピカビアらは22〜23歳。アンドレ・ブルトンは24歳。アラゴン31歳。

西欧におけるロシア人参加のダダ運動
 1921年、赤軍に追われるようにして南ロシアからパリにきた未来派詩人、画家のイリヤ・ズダネヴィッチは、パリのダダ展開にくわわり、「41年グループ」というロシア人組織を結成し、集会や出版活動をおこなった。パリにはもう一人積極的なロシア人ダダイストがいた。17年にスペインのバルセロナでピカビアやローランサンと組み、ダダ新聞を発行したシャルシューヌである。

ダダとシュルレアリスムの対立
 ダダのトリスタン・ツァラとシュルレアリスムに傾くアンドレ・ブルトンとの対立が露わになるのは、1921年5月に生じたモーリス・バレス(フランスの作家、政治家)の「革命法廷」事件である。
 当時すでにモーリス・バレスは支配的な存在ではなかったが、トリスタン・ツァラとアンドレ・ブルトンには、青年時代の崇拝する偶像が頑固な民族主義者になったことへの怒りがあった。それで裁判イベントが行われることになった。ブルトンが裁判長をつとめ、ツァラが証人の一人として登場。

ブルトン「証人は同時代の誰かにたいして尊敬の念を抱いたことがありますか」
ツァラ「いいえ。すべての人間は馬鹿者ですから。パレス氏は、かれの人生の擁護しうる行為にもかかわらず、今世紀最大のブタ野郎です」
ブルトン「パレスのほかに、大ブタ野郎の名をあげてください」
ツァラ「そう、アンドレ・ブルトンです」
ブルトン「証人はまったくの白痴とみなされたいのか、それとも精神病院に入れられたのか」
ツァラ「ぼくはまったくの白痴とみなされたいと思います。ぼくの言葉はぼくのものではありません。ぼくはあらゆる人の言葉を持っています。それらをよく混ぜあわせて、ちょっとしたブイヤベースを作るのです」

 これは芸術や言語システムを含むすべてを無意味化しようとする、ある時代の衝動的なダダ行為と、無意味化や無意識化の中にもシステムと論理の基盤が必要と主張する運動の正面きっての「劇的な」衝突だったのではなかろうか。

ダダとシュルレアリスムの決裂
 1923年7月6日、トリスタン・ツァラは劇場を借り切って「<髭の生えた心臓>の夕べ」のイベントを開いた。このときアンドレ・ブルトンらシュルレアリストたちが押しかけてきたが、舞台でダダ派の若い詩人が「宣言」を読み、その中に「ピカソは戦場で死んだ。アンドレ・ジッドは戦場で死んだ」と叫びあげた。それでピカソの友人だったブルトンはグループと舞台にとび上がり、若い詩人の腕を骨折させるほどの乱暴をした。ツァラが警察を呼び、警察がシュルレアリストたちを劇場から拉致した。そのため、ツァラの<髭の生えた心臓>が上演された間ブーイングが鳴りつづけ、すべてを破壊するはずのダダイストが最後になって秩序の番人である国家権力に頼ったことの批判をうけ、パリのダダ運動は急速に後退した。
 アンドレ・ブルトン自身もまだ流派としてはダダに属すると見られていたが、『文学』誌創設の友だったスーポーと仲間割れして強く批判するほどに分裂し孤立、さらに若い新人を『文学』にひきこむなどして、ダダの衣服をぬぎすてた。これにより、これまでダダの攻撃の的になっていた者たちを安心させた。

アンドレ・ブルトン『ナジャ(1919)(右:ナジャの描いた絵)
 ブルトンが一人の若いひじょうに風変わりな女性ナジャと知り合い、パリや近郊を徘徊しながらプラトニックな交際を続ける。ナジャはひどくポエチックで、非現実的な言動をくりかえし、ブルトンはそれに逐一対応する。ナジャは最後に精神病院に入る。実際にブルトンが経験し、観察した事実に基づく小説。ブルトンが主張する「客観的偶然」の所産でもあろうか。
 

(4) シュルレアリスムの芸術


右:マルセル・デュシャン 『泉』(1917=パリ時代)/左:『階段を降りる裸体』(1912)

 写真のぶれを意識して、絵画に時間をもちこみ動く対象を描こうとしている。描いた時期は早いが、すでにシュルレアリスムの先駆と見なすことができる。

 生活日常品から任意の対象をとりあげ、日常の道具としてではなくオブジェobjectとして提示する。ロシア・アヴァンギャルドのシクロフスキイらが唱えた、人の足を踏みとどまらせ注目を集め異化方法の一種ではなかろうか。デュシャンは対象を創るのではなく、「選ぶ」 ことを意識しておこなった。ready made(レディ・メード=既製品)という言葉はダダ時代のデュシャンが、一連の量産品に署名しただけのオブジェを「レディ・メードのオブジェ」と呼んだことから始まる。
 マルセル・デュシャンはニューヨークで『モナリザ』の複製に一対の口ひげを飾ったうえで、自分の署名を入れた。アンドレ・ブルトンは「絶望は大きく、それを乗り越えるためには、ブラックユーモアの助けを借りるしかない」と述べている。

下:左からシャガール、キリコ、ダリの作品

 ダリの絵は、「物語」のための時間が20世紀ではすっかりゆがんでしまったことのメタファー(隠喩)である、と解釈される。
 シャガールの絵は重力や引力からの解放を示している。シュルレアリスムの視点から再評価がおこなわれた。ロシアの詩人マヤコフスキイとエセーニンもシャガールを高く評価した。
 エルンスト、ルネ・マルグリット、初期のジャコメッティもシュルレアリスムの流派として評価されている。
 アルベレスは『20世紀文学の決算』で「1919年、そしてなお長い歳月の間、ダダイズムと、それにつづくシュルレアリスムとは、まだアヴァンギャルドの主潮としての役割を演じていた」と述べている。
 1936年初めてロンドンで、アンドレ・ブルトンらがシュルレアリスムを披露すると、ジャーナリズムは嘲弄したが、市民は理解した。
 ハーバート・リードは『モダンアートの哲学』で、ブルトンの「自動速記術」を「放心」として捉え、プラトンの詩論を適応させている。つまり詩は神がかり状態でできるものだ、としたのだ。
 
 

お奨め文献
塚原史『言葉のアヴァンギャルド』講談社現代新書
マシュ・ゲール『ダダとシュルレアリスム』(巌谷国士、塚原史訳 岩波書店)
アンドレ・ブルトン『ナジャ』(稲田三吉訳 現代思潮社)
フーゴ・バル『時代からの逃走』(土肥美夫・近藤公一訳 みすず書房)

参考文献
神奈川県立近代美術館『ダダと構成主義』1988
ミシェル・サヌイエ『パリのダダ』安堂他訳/白水社
ハンス・リヒター『ダダ。芸術と反芸術』針生一郎/美術出版社
巌谷国士訳『シュルレアリスム』(シュルラレアリスム文献集)1977
アンドレ・ブルトン『シュルレアリスム宣言』稲田三吉訳/現代思潮社
トリスタン・ツァラ『ダダ宣言』小海永二・鈴村和成訳/竹内書店新社
パトリック・ワルドベルグ『シュルレアリスム』巖谷国士訳/美術出版社
マルセル・レイモン『ボードレールからシュルレアリスムまで』平井照敏訳/思潮社
アンドレ・ブルトン、マルセル・デュシャン編『シュルレアリスムの変貌』渋沢、小海他訳/国文社
『ユリイカ(1981.5)ダダ・シュルレアリスム特集』巖谷国士編集 ( 川崎 浹「パリ―モスクワ」掲載)
『ユリイカ(1983)ロシア・アヴァンギャルド特集』 (川崎 浹「ロシア未来派とダダ」掲載)
『ユリイカ(1976.8)シュルレアリスム特集』 巖谷国士編集
『ユリイカ(1991.12)アンドレ・ブルトン特集』
『ユリイカ(1979.3)ダダ特集』種村季弘編集
その他多数あり。

 



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