「ヨーロッパ文化」講義録 vol.9

〜 ドストエフスキイ『白痴』 〜

講義録中の[11-253]などの数字は、新潮社版「ドストエフスキイ全集」の[巻数-頁数]を表記しています。

目 次
(1) 二つの三角関係 (2) 創作ノートより (3) ヴァーチャルとはなにか
(4) 精神病院からの到来 (5) 行為と理想のはざまで (6) 問題点の提示
 

前回『罪と罰』講義への補遺:
 「ラザロの復活」はラスコリニコフに精神的復活へのきっかけをあたえる。では、ヨハネ伝「ラザロの復活」を抜きにして『罪と罰』は成立しないか。つまり『キリスト神話』を現代ふうに変えることはできないか。
 「ラザロの復活」はヨハネ伝だけに掲載されている出来事。他の共観福音書マタイ、マルコ、ルカ伝にはない。ヨハネ伝は一番最後の2世紀後半に執筆されている。共観福音書がイエスの歴史的姿を記しているの対し、ロゴス(論理とも言葉とも訳されている)として、「イエスの神的本質と崇高さを高揚して、イエスを偶然に世の常の人間たちの間に迷い込んだ超人として描いた。」「ヨハネはイエスにアレクサンドリア哲学の知識のある人にだけしか分からない言葉を吐かせている。」(ドレウス『キリスト神話』262頁)

将軍の家族

ビデオ「白痴」より『公爵とナスターシャ』
 

(1) 二つの三角関係
 スイスの精神病院七年間の治療をうけ、病気もほぼ治癒して遺産相続のために帰国してくるムイシュキン公爵は車中でラゴージンと知り合う。迎えるのは遠縁にあたるエパンチン将軍の家族。ここの書斎でムイシュキン公爵はナスターシャの写真に魅せられる。ところがロゴージンも彼女に執着していた。ナスターシャ、イシュキン、ロゴージンの三角関係が成立する。

ナスターシャの生い立ち:
 
エパンチン家に出入りする金持ちの地主で年輩のトツキイは、ナスターシャを養女としてひきとりながら、愛人にしてしまい、今はナスターシャをエパンチン将軍の秘書ガーニャ(ガブリール)青年になにがしかの金とともに押しつけようとし、自分は将軍の長女と結婚するつもりだった。将軍夫妻も長女をトツキイに嫁がせる気でいた。
 エパンチン家には利発で美人の三人姉妹がいた。三女アグラーヤは特別に注目をひいた。彼女がムイシュキンを愛したために、彼女とムイシュキンとナスターシャの間でも別の三角関係が成立する。

ガーニャの家で:
 ムイシュキン公爵は将軍の秘書ガーニャの家に下宿するため、ガーニャにつれられて訪れる。ガーニャの母親はナスターシャとの結婚を望んでいない。ガーニャ青年の妹ワーリャはナスターシャがこの家に入るのだったら、「私はここから出ていく」と宣言する。含むところあって尋ねてきたナスターシャと、ムイシュキンばったり出会う。最初ナスターシャはムイシュキンを奉公人とまちがえる。
 さらにロゴージンもナスターシャのあとを追ってくる。ナスターシャはガーニャと結婚する気はないといって、ロゴージンを狂喜させる。ロゴージンはガーニャに三千ルーブリを渡そうとし、他方ナスターシャには一万八千ルーブリを示す。彼女は「こんなはした金で私を身請けできるつもりなの」と一笑にふす。ロゴージンは「じゃあ十万用意する。」ガーニャの家族、ロゴージンがひきつれてきたやくざ者たちが絡んで紛糾し、「こんな恥知らずの女は家から出して」とワーリャ。ナスターシャは「自分の誕生日に招待するつもりでやってきたのに」という。ガーニャとワーリャの喧嘩。9ー144妹がガーニャに唾を吐き、ガーニャがつい公爵の顔をなぐってしまう。

ナスターシャ邸のパーティ

ナスターシャの誕生日の夜会で:
 ムイシュキンはナスターシャに、ガーニャやロゴージンとの結婚をやめさせた[9-199〜200]。ロゴージンが十万ルーブリを持参する。これを競り市に見立ててナスターシャ笑い、皆にいきさつを語る[9-202]。「憎んでいる私を自分の家に利益のために引きずりこむのでしょう」とガーニャを罵倒する[9-203]。ムイシュキンはナスターシャに結婚を申し込む[9-204]。「あなたはさまざまな苦悩のあとに、その地獄のなかから清らかな人として出てこられたのです。」「そんなことは小説の中のような寝言です。ご自分だってばあやが必要なのにどうして結婚なんか出来るのでしょう」[9-205]。「実は莫大な遺産が受け取れるらいしのです」[9-206]。パーティに居合わせた情報通が、手紙の主の弁護士が有名な人物であることを知っていたので、伯母の莫大な遺産が公爵に転がり込んだことを確証する[9-207]。一座の興奮と、この時から「ナスターシャの気が狂った」と後になって一同思い当たる[9-209]。「あなたのような誇りの高い人がロゴージンと同棲などするはずがありません」[9-214]。ナスターシャは十万ルーブリを暖炉にくべて、ガーニャに火が包にまわったのを素手で拾えるなら全部あげると提案する[9-216]。火にくべる。ガーニャ失神する。

 だがナスターシャは公爵のことを考えてロゴージンとモスクワに去る。遺産相続のことで公爵もモスクワに行き、ナスターシャに会うことになる。彼女は結婚式の間際にロゴージンから逃げて公爵のいる所にくるが、かれとアグラーヤの結婚を切実にねがう。公爵もアグラーヤと結婚する気になるが、二人の女への愛情の狭間で迷う。それでもナスターシャと結婚式をあげようとする。しかしナスターシャは結婚式のまぎわにロゴージンのもとに逃げる。

(2) 創作ノートより
「公爵はすべてを赦す」「キリスト教公爵」
[9-258]
 公爵は罪深い人について語る。「みんな病人なのだ。彼らには介抱が必要なのだ」[9-228]
состраданиеについて:憐憫や同情と日本語では訳されているが、本当は他人の苦しみを共にする共苦の意味。共に苦しむ。

 ムイシュキンは「состраданиеは全人類の唯一の法則かもしれない」と言い、『白痴』の創作ノートには「共苦состраданиеはキリスト教のすべて」とあり、白痴イディオートの性格を特徴づけて「彼はきわめて深い共苦состраданиеに貫かれており、過ちをおかす。・・・その代わりに、高い道徳的感情の発達を獲得し、功業をなす」ともある。

 「創作ノート」に示されているムイシュキンの性格おどおどしている。いじけた感じ。謙虚さ。[26-224〜225]

小説の3つの愛の形[26-228]
 1.情熱的に直情的な愛・ロゴージン
 2.虚栄心からの愛・ガーニャ
 3.キリスト教的な愛・公爵。

世界は美によって救われる
 「世界は美によって救われる。美には二つの典型がある」[26-230]
 「世界は美によって救われる」「ポジティブな美」・・・美とはなにか。ソドムとゴモラ(旧約聖書の登場する悪徳のために火と硫黄で焼き尽くされる町)

「美しい人」
 ドストエフスキイは姪のソーニャへの手紙で「『白痴』でポジティブに美しい人間を書きたい」といっているが、ドストエフスキイにとってポジティブに美しい人間とはキリストにほかならなかった。これがドストエフスキイの表現の目的。
 

(3) ヴァーチャルとは何か
 ヴァーチャルの概念を至る所で応用せよ

三次元空間の拡大・縮小
 ヴァーチャルとは仮想空間・三次元空間・触手可能空間。ゲームセンター。コクピット。ゴーグル使用となるとハイパーシミュレーション。

 ドストエフスキイはヴァーチャル・シュミレーションの先駆者であると、私は昔から考えてきた。『白痴』はひじょうに複雑なヴァーチャル・シュミレーションをで行っている。本来なら存在し続けられないような人物、俗世間では生きていけないような人物が、俗世間のヴァーチャル・シュミレーションの三次元世界に登場する。こちら側の世界の人間から見るとムイシュキンの世界がヴァーチャルに見えるだろうが、ムイシュキンの世界から見れば、俗世界こそがヴァーチャルに見える。私たちは自分の触手可能な空間や時間のみを現実的で真実であると考えちがいしているが、秒速30kmで疾走する地球の公転速度も感じ取れない私たちに、ましてや人間の精神界の真実など理解できるだろうか。ムイシュキンがその真実を運んできたのである。ここで私は『白痴』をキリスト教的解釈から引き離して、21世紀的空間のなかにインストールしたい。

フィリップ・ケオー『ヴァーチャルという思想』NTT出版

めまいの感覚、深淵の眩惑
 ヴァーチャルは私たちにめまいの感覚、深淵の眩惑をあたえる。
「ヴァーチャルなめまいは、世界からの逃避を渇望する者にとって、新たな阿片となる。そのめまいはまた現実にたいし、最も鋭く、最も確かな眼差しを向けるための条件ともなる。」(フィリプス・ケオー著『ヴァーチャルという思想』NTT出版21頁)

隠れている現実性(真実)の(空間を通しての)確認
ヴァーチャルの三次元空間が出現することで、その発信源の真実性に気づく。
 

(4) 精神病院からの到来
 虚・非有・非在の世界から
 眩惑の構造:diferrence差異
 死刑囚の話
 てんかんの宇宙感覚

 スイス山腹からの光景。遠い場所の象徴・・・そこから眺めた遠い光景の復元

ジュネーブ湖

 誕生日パーティ以来ナスターシャはムイシュキンに夢中になってしまったが結婚する気になれないのは、公爵の顔に泥を塗ることになるから。その後、ナスターシャが公爵の所から逃げだしたのは・・・
 「どれほど激しくあんたに惚れこんでいるかってことに急に自分でも気づいたからさ」(ナスターシャを探してロゴージンの家を訪れたムイシュキンとロゴージンのやりとり)

 机上の刃渡り13cmの園芸用ナイフをムイシュキン二度とりあげ、ロゴージンそれを取り戻す。通り抜けの部屋に幅180cm、高さ30cmの絵があった。ハンス・ホルバインの模写絵だった。ムイシュキンは「外国で一度見たが忘れられない」と言った。ドストエフスキイ自身がバーゼルの美術館で見た絵である。私自身もこの絵を見るためにバーゼルに足を運んだ。
 ロゴージン曰く「おれはあの絵が好きだ」
ムイシュキンはそこにホルバインがあることに驚く。「人によってはあの絵のために信仰を失うかもしれないのに」

 信仰への渇望と信仰への絶望。十字架から降ろされたキリストの単なる物体としての虚無。
 

(5) 現実と理想のはざまで
聖愚者
(Holyandfool=юродивый=ユロージブイ)
 ロシアでは特に農村では、юродивыйと呼ばれる信者、修行僧や巡礼者たちがいた。生まれつき頭の弱いユロージブイもいたが、意識的に愚者を演じる者たちも多くいた。すべての行のうち「隠された知恵を秘めた瘋癲の行」こそが最高の難行と考えて、彼らは放浪生活を始めた。ごう慢にならないため、自分の身を低めて、自分を罵倒の対象にした。しかし気違い同様のしゃべり方をしているうちに、たやすく堕落するのが常だった。(リハチョフ『中世ロシアの笑い』144頁)

さらにユロージブイについて
 『罪と罰』では「ラザロの復活」をソーニャが読む少し前の場面で、ラスコリニコフがソーニャと自分が殺したリザヴェータを「二人ともユロージブイだ」と言う所がある。刑事犯たちすらロシアでは民衆から恵を受けたが、神を信じる者であれば、それはfoolでも人びとから優しく迎えられた。
「滑稽なものと真面目なものとの境界線上でバランスを保っている」(リハチョフ『中世ロシアの笑い』140頁)
純粋にロシア的現象。生まれつきの瘋癲と「隠された知恵」としてのюродивый。

公爵(不可触の聖域)とidiot(ろば)
 公爵という名称をつけて聖空間を枠付けし、そこで作者は初めて愚かしいと見える行為を行わせることができた。この枠付けによって、ただの愚かしさではなく、「知恵を秘めた」行為となるからである。

こっけいと悲劇・・・「もはや時なかるべし」
『悪霊』に至る前に『白痴』にある。[9-277]
創作ノートより
「もはや時なかるべし」黙示録(江川卓「謎とき『白痴』」新潮社48頁)

現代のキリスト滑稽さと無邪気
 キリストが二千年後の現在、地上に降りてきわれわれとともに暮らすことができるのか。つまり真実に美しい生き方ができるのか。現在の人間の生活との間の差もあるだろうが、それよりもあの世界とこの世界の考え方の基準のズレ(差異)=ずっこける=滑稽=笑い。ムイシュキンの存在とドストエフスキイの小説が救われているのは、滑稽があるから。

ホルバイン画「キリストの屍」(1521)

ドン・キホーテ
 ドストエフスキイは創作ノートで「もしドン・キホーテが有徳の人でありながら読者の好意をえて成功したとすれば、それはかれらが滑稽だったからである。長編の主人公がもし滑稽でないとすれば、かれは別の好もしい特質を持っている。つまり彼は無邪気なのである」
 ムイシュキンはロバが大好きだと公言している。ロバはお人好の代名詞。無邪気=足りない(お人好し)=ばか=白痴。ムイシュキンは無邪気であると同時に滑稽でもある。ドン・キホーテはロバに乗っていた。ムイシュキンはドン・キホーテを念頭において書かれている。

 ポジティブな美はこの地上には永続できない。キリストが十字架につけられたように。一般に聖性は人間には根づかない。

結末
 ムイシュキンはアグラーヤとナスターシャの二人への愛、そして二人との愛の間でひきさかれ、病気が再発する。ナスターシャも途中から頭がおかしくなる。ロゴージンも心理的に翻弄され、ついには耐えられずナスターシャを刃物で殺す。ムイシュキンは完全な白痴状態におちいる。明け方までロゴージンの家で二人はナスターシャの遺骸のそばに座りとおす。
 

(6) 問題点の提示

ムイシュキンのキャラクターについて。
精神病院から(資料:フロイドの「父親殺し」)
姉妹を前にして、場違いの話をする。日常生活の約束事にはまりきれない。知人の話としての死刑囚の実存状況[9-75]
生と死のボーダーライン(境界領域)上の浮遊。死の前の5分間に囚人は何を考えようとしたか。ドストエフスキイ自身は処刑場で25分くらい、この体験をした。


地平線と空が接しているところ[9-73]。


てんかん発作のときの心理状態[9-277]。花瓶を壊したときの心理状態[9-283]


非在から存在の世界を見る目の所有者。アンデルセンの『裸の王様』で子供だけが、きらびやかな衣裳の王様が実は裸であることを正直に言う。ムイシュキンの目もこれと同じ。


ムイシュキンが山上の精神病院から地上の生活に下りてくること自体が、上と下との差異、精神病院の非日常性から生活の日常性への移行、さらに再び非日常の精神病院に送り返されることによるブレ、差異、幻惑の構造。

『白痴』の魅力にひとつは幻惑(目まい)の浮遊感覚にある。ケオーのいうヴァーチャルの感覚。

 幻惑は対象の変化に視覚その他の感覚がついていけないときに生じる。つまりズレから生じる感覚。この世にある最大のズレは有限と無限、存在と無の違いから生じるズレ。それはつまり宇宙感覚でもある。ムイシュキンはこの宇宙感覚に恵まれていた。ドストエフスキイはこれを描こうとした。世俗の社会ではムイシュキン公爵は役立たない人間だったが、このように特別の感覚を持っているがゆえに『裸の王様』の子供のように物の本質を見ることができる。

私の一つの独断的結論:
 『白痴』におけるパラドックス:ドストエフスキイが『罪と罰』で意図した「新しい人間」の甦りとは、『白痴』では人間への「共苦」のあまり、人間から遠ざかることにおいて成立した。

 

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