「ヨーロッパ文化」講義録 vol.8

〜 ドストエフスキイ『罪と罰』 〜
講義録中の[11-253]などの数字は、新潮社版「ドストエフスキイ全集」の[巻数-頁数]を表記しています。

目 次
(1) 事件の発生 (2) 主人公の日本名:割崎国生(割裂く) (3) 自白のすすめ
(4) 自白のプロセス (5) 主題1 (6) 主題2
 

(1) 事件の発生
 1865年1月老婆殺害
 27歳の店員、分離派教徒の犯行
 『死の家の記録』(1864)

 1865年1月に老婆二人の殺人事件が生じた。斧による後頭部の打撃。金と貴金属類の強奪。犯人は27歳の分離派教徒。当時こうした犯罪は現在の日本と同じように悪化と増加の傾向をたどった。

ドストエフスキイ写真集237頁より

 ドストエフスキイはこの事件をなかり忠実にたどって創作ノートを作成した。つまりひじょうにジャーナリスチックだった。その証拠に『罪と罰』が連載開始直後に、裁判関係の雑誌の書評で『罪と罰』がとりあげられている。

 小説では主人公は店員から学生へ変貌。殺害された老婆は今でいうローン、当時は質草をとって金を貸す質屋の金貸し婆へ。老婆二人の一人はまだ若い義理の妹に。リザヴェータは「馬鹿女」holyfoolへとそれぞれ形を変える。

 『死の家の記録』と『地下室の手記』から『罪と罰』へ。殺人犯ガージン[5-52]。ガージンがドストエフスキイたち貴族のテーブルにきて大きな木箱を振りかざす[5-54]。顔色ひとつ変えずに人を殺すオルロフは『罪と罰』のスビドゥリガイロフと変形している。

 スビドゥリガイロフとは何者か。悪としてのラスコリニコフの影。監獄の中の殺人犯を目の前にし、しかも共に暮らしたという体験はドストエフスキイに人間の否定面を、或いは人間存在・人間性の全否定について、人間というものについて洞察させる体験をあたえた。囚人つまり人間は「自由」を最大の価値としている、というのも監獄でのドストエフスキイの貴重な認識である。

 その自由の可能性を証明しようとしたのがラスコリニコフ。ラスコリニコフの哲学は『地下室の手記』の意欲・欲求・我意(хотениесвоеволие)の証明としてあらわれる。『地下室の手記』の主人公が主張したように、第一にラスコリニコフは幸福など望んでいない。幸福に代わって意欲・欲求・不利・不利益こそが重要なものになる。殺人をすれば不利なことは分かっている。にもかかわらず、殺人を実施するのは、自分の思想の正しさを証明するためである。だから殺害という人間の可能性としての実験を行う。では彼の殺人を賭けてでも証明しようとした思想の内容とはなにか。

ドストエフスキイ写真集244頁より「ソーニャ」

 ラスコリニコフによれば、人類は非凡人と凡人の2種類に分類される。天才、非凡人は自分の欲求・我意のままに行動して、それを実現すれば、自分が世界の中心になれる。つまり神になれるのだから、神つまりこの自分の行動と思考が法の中心であり、すべての倫理や道徳はこれを基準にして成り立つ。ナポレオンは何十万という敵味方の兵士を殺してしまったが、英雄として尊敬されている。なぜ自分がなんの役にもたたない老婆を一人殺したくらいで悪人扱いされねばならないのか。

 ラスコリニコフが見た風景の虚無性の心象を投影した風景。について。ラスコリニコフとスビドゥリガイロフ
 

(2) ロジオン・ロマーノヴィチ・ラスコリニコフ
 РодионРомановичРаскольников
 頭文字РРРをひっくり返すと666
 666の意味アンチ・キリスト

 ドストエフスキイが最初に思いついた主人公ワシーリイの名が途中でロヂオンに代わった。ヨハネの黙示録では「666」の数字があげられ、「この数字は獣でかつ人間の名を指している」とある。文字と数字の関係を示す図表によれば「666」はネロン・カエサル、つまりキリスト教徒を迫害した皇帝ネロを意味した。

ドストエフスキイ写真集245頁より「ひざまづくラスコリニコフ」

 ラスコリニコフとは日本語に置き換えれば「割裂き」ラスコローチが「割裂く」という動詞である。従って割崎との名がふさわしい。

(3) 自白の薦め
 なぜ二人を殺させたのか(老婆とリザベータ)
 娼婦ソーニャのもとへ
 聖書「ラザロの復活」

 

(4) 自白のプロセス
 予審判事ポルフィーリ
 良心の呵責? 
 イルトゥイシ河畔で

 最後に警察に自首するラスコリニコフの行為は良心に基づくものではない。E.H.カーの解釈によれば『罪と罰』は「良心ではなく行動の書である」(『ドストエフスキイ』)

 ラスコリニコフの大地への接吻の意味

 ラスコリニコフの悔悟はドストエフスキイが当時の読者を配慮していたという意見がある。

 「良心」の問題解決の糸口:[7-279]予審判事ポルフィーリ「あなたはひどく論理的ですね。だがその男の良心は?」。ラスコリニコフ「それがあなたに何の関係があります?」「別にただその人道の面から」「良心がある者は、あやまちを自覚したら、苦悩するでしょう。これがその男にくだされる罰ですよ、苦役以外のですね」

 『死の家の記録』のイルトゥイシ河畔での感想[5-238]は『罪と罰』の終幕におけるラスコリニコフの改心の情景とオーバラップする。

ドストエフスキイ写真集238頁より「ラスコリニコフと予審判事」
 

(5) 主題1
 ナポレオン
 神(権威・法)と倫理
 殺意と殺人の間に境界はあるのか
 плеступление一線を超える
 人(他者と自己)は殺していい存在なのか

 自分の生活は自分で選択したい、ましてや生活を支える自分の生命を抹殺する権利を他人には与えたくない。とすれば、他人も同じことを考えているゆえに、他人を殺害する権利はない。だが自分の生命と人生を抹殺する権利は自分にあるのではないかという問題が残る。それは『悪霊』のキリーロフの箇所で論じよう。

 しかし、ここに他人の生命を殺害してもいいというラスコリニコフの思想が出現する。ナポレオンという単語は『罪と罰』に十数カ所出てくる。

 殺意と殺人の境界は大きいか小さいのか。他人の頭蓋に斧を振り下ろす行為は衝撃的だ。それゆえ江川卓は『謎とき』で、斧を振り下ろす行為は、斧の刃が犯行者の方を向いていることでラスコリニコフの精神を割裂くことになるとのべている。

ドストエフスキイ写真集246頁より「シベリアのラスコリニコフとソーニャ」

 生物学者はタブー(本能的遺伝子も含め)が生物を存続させていると言う。タブー本能は動物にはあるが人間にはないという学者がいる。ドストエフスキイはそれを実験しているようだ。

 時代がヴァーチャル的になり、クリックだけのゲーム感覚で殺人に荷担できる(湾岸戦争の際のテレビ視聴者の心理)とすれば危険きわまりない。仮に殺意と殺人との間に境界がないとすれば、私たちは生涯何百人をも憎い相手としてクリックだけで殺すことになるだろう。それゆえ実際に誰かを殺害して気を晴らすかわりにゲームで殺害してカタルシル(浄化作用)を行う。この場合実際には殺される人間はいない。

 従って殺意とそれを実行に移すことの間には大きな境界がある。それを語ってくれるのが『罪と罰』Crimandpunishementである。(知恵の実を食べた人類の原罪としてのsinではなく、crimである。)それでドストエフスキイはクリックではなく斧というきわめて原始的な器具で殺人行為をラスコリニコフにさせる。

宗教は生命をどう扱っているか:キリスト教では神の愛と光と生命は結びついている。ニーグレン『アガペーとエロース』参照。偽ディオニシュウス・アレオパギタの『天上位階論』における光の分有論を想起すべし。神の愛の光が階層的にではあるが、すべての者に浸透している。生命を殺害することは神の愛に背くことである。だがキリスト教を信じない者には、この生命=愛の図式は通用しないのではないか。この問は『カラマーゾフの兄弟』で発せられる。

 それでもなお生命は、「場合によって殺人も致し方ない」というような相対的な評価しか得られないものなのか。例えば戦闘行為や正当防衛で相手を殺害する場合のように。しかしトルストイは、「暴力による」キリスト教的な悪への無抵抗を唱えている。

ドストエフスキイ写真集249頁より「当時のドストエフスキイ」

 銀河と銀河の衝突現象が伝えられているが、その際、何兆もの人類、生物が消滅しているのかもしれない。「崇高」は我々の判断を超えている。カントは「崇高」を顕わすものとしてイシスの神を挙げている。

「おそらくは、イシス(母なる自然)の神殿に書き込まれた銘文における以上に、崇高なことがかつて言われたことなどないだろう。<我は存在するもの、存在したもの、存在するであろうもの、これらすべてのものであり、死すべきいかなるものであろうと我がヴェールを取り除いたものはいない>」(ドゥギー他『崇高とは何か』叢書ウニベルシタス/法政大学出版局)

 昨年の聴講者アンケートに「ドストエフスキイは自分で人を殺すことを空想していたのだろうか」との質問があったが、もちろんドストエフスキイは殺害を空想というよりイメージしていた。それも感覚的にと同時に、思想とないまぜにしながら。

 一線を踏み越えたことでラスコリニコフとソーニャは共通している。
 

(6) 主題2
 フロイド『芸術論』
 「ドストエフスキイは犯罪人である」
 人間の可能性

フロイド『芸術論』
「ドストエフスキイを犯罪者とみなそうとすれば、激しい反対を起こさずにおかない」

マイペディアより「フロイドの肖像」

 自由存在としての人間の可能性を実験。自由な善とは悪の自由を前提とする。悪=殺人。ドストエフスキイはこの問題を究極にまで詰めていった。

 ドストエフスキイの実験:人間は倫理的にどこまで自由でいられるか。自分の思想を証明する自由のために殺人をしてもいいほどに自由であるか。その自由に耐えることができるか。

生命とはなにかを問うている。そういう問いを発する前に地球上では戦争で人間は人間の生命を集団的に殺戮してきた。この現実の前で人間は思考力を奪われてきた。しかしドストエフスキイは人間集団ではなく、人間を一人に絞って考察した。それも一番の価値の低い人間に絞って。しかし、リザヴェータを配置することで、一人ではなく、すべての人間に通じるものであることを示唆している。

 『罪と罰』の最後は、「新しい物語」という言葉で、他者への共苦をもたぬ殺人者から共苦をもつ新しい人間への甦りを暗示している。その問題は『白痴』へとひきつがれる。

フロイド著『芸術論』表紙
 

総括:ドストエフスキイは『地下室の手記』でチェルヌィシェフスキイを相手にした。チェルヌィシェフスキイの『何をなすべきか』や前年のツルゲーネフの『父と子』に現れ、その後益々あらわになる政治的「ニヒリスト」(虚無主義)の哲学を批判した。功利主義や科学主義、理性主義、合理主義、進歩主義を批判した。しかし、『地下室の手記』の主人公もやはり対象を否定ばかりするニヒリストだった。その上名前すら持たない。

 『地下室の手記』と『罪と罰』の間のニヒリストの相違:『罪と罰』では同類の青年「ニヒリスト」でもノンポリ(政治に無関心な)を対象にている。言葉のさらなる根源的な意味でのニヒリズムを問う。政治的ニヒリズムではなく哲学の対象としてのニヒリズム。

 その証拠に、ラスコリニコフはポルフィーリとの対話で、政治的ニヒリストを「自分を進歩的な人間、つまり<破壊者>と思いこんで、<新しい言葉>をはきたがる。しかも新しい人びとを時代遅れの卑屈な思想の持ち主として軽蔑しているのです」という。[7-276〜277]

 『地下室の手記』で作者は幸福、理性、利益、を全的に否定しているわけではなく、相対的に否定している。幸福や理性や利益以上に重要なものはないのか、と。主人公はそれはхотениесвоеволие欲求、恣欲(江川訳)、自由意志(米川訳では強情とわがまま)、我意だと主張している。人間は自由存在である、と。

 

 

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