
(1) 青年時代(1840年代)
陸軍工科学校
父親、農民に惨殺さる
てんかんの兆候
『貧しき人びと』『白夜』1830年代はスラブ派と西欧派対立の時代。1840年代はゴシック風小説の執筆。
『貧しき人びと』(1845)でいちやく有名になり、『分身』その他を次々と創作。1846年ペトラシェフスキイ(役人)が路上で挨拶する。金曜会に参加、フーリエ、ロバート・オーエン空想社会主義。(サン・シモンの読書についてはグループで隠していたのではなかろうか?)
陸軍工科学校
(2) ペトラシェフスキー事件
金曜会とスペシネフ
1848年2月革命の余波
1849年逮捕と投獄
死刑宣告仏2月革命の余波をうけて逮捕
1848年2月革命(1830年にブルボン王朝オルレアン家からルイ・フィリプが王位につくが、ブルジョワ体制だっために18年後に共和派反乱)。第二共和制。その後ルイ・ナポレオンが51年にクーデター、皇帝ナポレオン三世となる(が、ナポレオン三世は憲法を承認せざるをえなかった)。この2月革命のロシアへの波及を恐れて、皇帝政府はペトラシェフスキイ・サークルを検挙することにした。いわゆるペトラシェフスキイ事件に連座して、ドストエフスキイ、1849年4月に逮捕される。
ペテロパヴロフスク要塞監獄(「ドストエフスキイ」特集雑誌より)2月革命の2週間前にマルクス・エンゲルスの『共産党宣言』の原稿がロンドンの印刷所にまわされた。
ペテロパブロフスク要塞監獄に拘留され尋問
ドストエフスキイはペテロパブロフスク要塞監獄に拘留され、尋問をうける。ドストエフスキイが逮捕されると、彼の管理下にあった印刷機を、友人たちがすばやく隠した。(これは『悪霊』のシャートフを連想させる)フーリエについて
ドストエフスキイの陳述=「フーリエ主義は平和なシステム」(グロスマン73頁)
フーリエの肖像とファランステール(ファランステールは「ドストエフスキイ写真集」130頁)処刑場で
死刑執行寸前にニコライ一世の芝居がかった特赦により、一命をとりとめ、このときの経験がのちに『白痴』のムイシュキン公爵の話に挿入される。(グロスマン111〜112頁)
元老院広場の処刑執行場面(「ドストエフスキイ写真集」118頁)兄へのけなげな手紙
グロスマン113頁を参照のこと。フォンビジナ夫人あて書簡
「ぼくは世紀の子供です。永遠につづく不信と懐疑の子です。」シベリアへ
オムスク監獄。教室では、オムスクと、流刑地となるセミパラチンスクを図示。
シベリア地図オムスク、セミパラチンスク(「ドストエフスキイ写真集」177頁)
(3)『死の家の記録』(1862)
近親者への手紙
監獄内での体験
囚人たちと小説の登場人物
囚人と護送兵(「ドストエフスキイ写真集」144頁)
冬の囚人労働絵(「ドストエフスキイ」特集雑誌より)『死の家の記録』の簡単な紹介。
ドストエフスキイの作品中ただ一つの写実的作品であり、トルストイが賞賛する。
貴族としてのドストエフスキイの自尊心に最初の衝動をあたえた監獄将校の対応。
「共同生活ほど苦痛なものはない」[5-28]。
貴族は敵意ある目で見られていた。
ガージンがドストエフスキイたち貴族のテーブルにきて大きな木箱を振りかざす。監獄でドストエフスキイは自国民の根本を見た。[5-52〜54]
「悪い人間の間にもいい人間はいるものだ」と・・(以下省略)「ひょっとしたら、獄外に残っている連中よりも」[5-74]
少女に施しをもらったときの記憶。[5-25]
「 囚人とは自由意志のない人間」。彼らは金を使うことで、彼は自分の意志をあらわしている。[5-86]
「自由意志が囚人に属する場合は、それは外からは犯罪と見られる。」[5-87]
ペテルブルグ帰還後のドストエフスキイのヨーロッパ旅行。
ドストエフスキイのビクトル・ユゴー観はコマロービチ『ドストエフスキイの青春』に読める。[5-111]
自分の監獄、犯罪人体験によってユゴーの貧者救済の思想とはどこかで共通していた。
監獄内のドストエフスキイ(「ドストエフスキイ写真集」118頁)総括:2月革命がフランスで起こらなかったら、ドストエフスキイは「死の家」には送られなかった。彼が監獄の経験をしなかったら、『死の家の記録』も『地下室の手記』も執筆されなかった。『死の家の記録』 のなかに、金の使い方にただ自由だけを求める囚人の描写がある。ここに人間の自由のあり方が示されている。『地下室の手記』の重要な主題は自由である。
ベッドの下に大金を隠していた貧乏人の話が、ドストエフスキイの20歳代の作品に書かれている。
(4) 監獄からの釈放と流刑
オムスクからセミパラチンスクへ
イサーエワと結婚
『虐げられた人びと』
流刑地セミパラチンスクでの軍事教練(「ドストエフスキイ写真集」163頁)
軍人ドストエフスキイ(「ドストエフスキイ写真集」170頁)
(5) ペテルブルグで
兄と雑誌「時代」を発刊(1861)
『死の家の記録』発表
ペテルブルグ大火(1862)
外遊(1862〜1863)でゲルツェン、バクーニンと会う
妻の死と『地下室の手記』(1864)
ロンドンまたはパリの博覧会
ペテルブルグ大火(「ドストエフスキイ写真集」206頁)
ゲルツェンの肖像(「ドストエフスキイ写真集」170頁)
チェルヌィシェフスキイ肖像(「ドストエフスキイ写真集」198頁)
(6)『地下室の手記』主人公の主張
チェルヌィシェフスキイ『何をなすべきか』(1863)
『地下室の手記』(1864)
「美と崇高」への反論
自分は虫けら・ねずみ
強度の自意識
理性で計算された幸福(2×2=4)
水晶宮(ユートピア)=万国博覧会
不幸でも自由意志(意欲)を選ぶ『何をなすべきか』(1863)
過激な檄文がばらまかれ、ペテルブルグの官公庁街に放火らしき大火が起こる。ドストエフスキイが青年たちに影響をもつチェルヌィシェフスキイを訪れ、過激な行動を起こさないように忠告して頂きたいと頼んだ。しかし、チェルヌィシェフスキイは、自分にはそんな力はないと断った。
チェルヌィシェフスキイ逮捕され、獄中で『何をなすべきか』を執筆。青年たちの熱狂的支持。
チェルヌィシェフスキイの『何をなすべきか』は検閲の網をくぐって雑誌に掲載された(「現代人」1863年3,4,5号)。あらゆる分野の青年たちが熱中して読み、すごい反響をまねいた。当局はあとで気がついて刊行を禁止したので、単行本は外国で出た。以後40年間発行されなかった。にもかかわらず、圧倒的多数の青年がこれを読み自分たちのバイブルとした。レーニンもこれを何度もくり返し読み、この小説を批判した友人をバカ呼ばわりしている。逆にいうと、レーニンも非常に単純な人物だったことになる。
『何をなすべきか』は女性の解放をふくむ社会解放論で、1840年代のサン=シモン、ロバート・オーエン、フーリエなどの社会主義をさらに過激に説いた主張である。具体的には次の思想が反映している。
1860年代の実証主義的無神論的世界観(コマロービチ118頁)。功利主義的、唯物論的社会主義。進歩思想。マルクス「宗教は阿片である」
1860年代の初めまではゲルツェン、途中からアナキストのバクーニン(皇帝制度と宗教の徹底的破壊、そして革命、その後は民衆に委任)が勢力をしめる。しかしマルクス・エンゲルスが取って代わる。第一インターナショナルが結成され、バクーニンはやがて組織からはずされる。

『地下室の手記』(1864)
ドストエフスキイが『地下室の手記』執筆している最中に、チェルヌィシェフスキイの獄中で書かれた『何をなすべきか』が掲載されたため、ドストエフスキイの『地下室の手記』の4〜7章にその反論が書かれている、といわれているが、殆ど全編チェルヌィシェフスキイへの反論と見ることができる。『死の家の記録』と内面的に繋がっていることが理解できる。
「ぼくは病んだ人間だ」「医学なんぞを尊敬する程度の迷信家ということだ」[6-91]
「数ヶ月も不眠症に悩まされる」[6-92]
「何物にもなれなかった。」[6-93]
1.何ものでもない
2.無性格
3.活動家=直情型の人間
「いったい自意識をもった人間が、いくらかでも自分を尊敬するなんて、できるだろうか?」[6-93]
この屈辱感をあたえるのは自然法則である。
「自然法則がぼくをいじめとおしてきた」[6-93]
主人公、自分をレトルト人間だ、強度の「自意識」は病気だ、といいながらも、自意識と病気を高く評価している:逆説。[6-98]『地下室の手記』はチェルヌィシェフスキイ『何をなすべきか』のパロディ・もじり・ひっくり返し。
「美と崇高」への反論
「美にして崇高なるもの」はゴシック建築と精神の講義では「崇高」と「美」の違いについてのべた。しかし、19世紀ロシアの1830〜1840年時代はロマン主義や「理想主義」の時代で、「美」と「崇高」は同一レベルにあり、漠然と同じ概念として用いられていた。ドイツの詩人シルレルの作品ががよく読まれた。ドストエフスキイの作品にはシルレルが多く登場する。ロマン主義の流れでは「崇高と美」は峻別されなかったようだ。ツルゲーネフの『父と子』(1862)の対立も、1840年代の観念論的理想主義派と1860年代の唯物論的現実派との葛藤としてとらえられている。
1860年代の青年に影響したのがベンサム、ミルの功利主義、唯物論、共産主義、コントの実証主義、進化論としての科学など。ダーウィン『種の起源』(1859)進歩の概念。
チェルヌィシェフスキイの『何をなすべきか』の主人公は功利主義に影響をうけている。
「自分の利益になることをすれば自ずと他者の利益になる。」第6回の講義でビクトル・ユゴーの『クロムウェル』序文(1827)と『エルナニ』(1830)がフランスでの代表的なロマン主義運動の先駆であることに触れた。1840年代はまだロマン主義の延長上にあり、ロシア史では理想主義もしくは美の時代と呼ばれていた。
チェーホフも1890年代初頭、知人への手紙で1840年代をそう名づけている。ツルゲーネフの『父と子』も1840年代の理想主義派と1860年代の唯物論・現実派との葛藤としてとらえられている。
では検閲当局はなぜチェルヌィシェフスキイの『何をなすべきか』を、そしてどこを見逃したのか。 当局は最初これを単なる恋愛小説とみなした。冒頭部分の推理小説ふうの、夫がホテルに置き手紙を残し、自殺したと見せかける。ロプホーフは親友のキルサーノフにキルサーノフが恋する自分の妻ヴェーラといっしょになるために、自殺と見せかけて身を引いた。
ロプホーフとキルサーノフの腕力的武勇談。ロプホーフは学生時代歩きながら道を譲らなかった。向こうからきた「ごう慢な」男を溝に抱えて投げすてあとで引き上げてやる。キルサーノフも同様。筋肉・腕力・暴力フェティシズム。暴力と反乱から革命への公式。「彼らはいずれも勇気があり、ためらうことなく、尻込みすることなく、事にとりかかる術を知っている。ひとたび事にとりかかると、それをしっかりとおさえて、手から取り落とすようなことはしない。これは彼らの特質の一つの側面である。また彼らは申し分のないほど誠実な人間である。わが国ではこの種のタイプは最近生まれたばかりである。」チェルヌィシェフスキイによって「ふえつつある新しいタイプ」の指示。「数年たてば、人びとが彼らに向かって『我々を救ってくれ!』と呼びかけるだろ」過激派の革命家を表そうとしている。『何をなすべきか』がツルゲーネフ『父と子』(1862)の一年後の作品であることを考慮すると、当時の時代の傾向がわかる。
検閲はこの小説の有している危険性を見逃したが、よく読めば、『何をなすべきか』が冒頭のゴシック推理小説めいた単なる恋愛ものでないことがよく分かる。
「直情型」(『地下室の手記』におけるドストエフスキイの発言)の行動家をとおしてチェルヌィシェフスキイは過激派の革命家を描こうとしている。
作者と登場人物のゴシック的単純さ。(これがドストエフスキイの『ぼた雪』で将校との出会いのパロディとして使用されている)
『何をなすべきか』の肯定的主人公たちは腕力が強くて、意気昂然として、直情型、医師で科学者で、自分の利益だけを大切にする功利主義者であり(功利主義・実証主義のコメント要す:J.S.ミルやコント)、結果として社会正義に走る。つまり肯定的英雄、ヒーローである。社会的なヒーロー(英雄)であり文学作品のヒーロー(主人公)でもある。
自分は虫けら・ねずみ
これに対し、『地下室の手記』はまったくのアンチ・ヒロー小説である。読者はそのことに途中で気づく。最後までくるとドストエフスキイ自身が、作品の語り手に自分をアンチ・ヒローだと呼ばせている。当然ながらアンチ・ヒーロー小説はまた徹底してアンチ・チェルヌィシェフスキイ論である。彼の『何をなすべきか』のパロディである。たとえば『何をなすべきか』の主人公たちは「新しいタイプ」の英雄である。しかし『地下室の手記』の主人公は名前すらないどころか、自分を人間ではなくねずみだの虫けらなどと自称している。
強度の自意識
『地下室の手記』は明らかに誇張の形をとっている。「誇張」はドストエフスキイが自分の作品を私小説と思われないためのフィクションではなかろうか。しかしもちろん『地下室の手記』の根本にあるものは彼自身の思想である。「40年間もぶっつづけに自分の受けた辱めを」と書いているが、「40年間」は自意識をもつに至る少年時代からのドストエフスキイの過去の時間と重なる。
理性で計算された幸福(2×2=4)
2×2=4=数学=石の壁=自然の法則(ルソー)「ピアノの鍵盤ではない」ピアノのもヴェーラが言った言葉である。
歯痛の快楽(スタンダールの幸福論の基準にある快楽原理にひとしい)=チェルヌィシェフスキイが『何をなすべきか』でロプホーフが主張する利益・快楽論に対する当てつけである。「屈辱感のなかにさえ快楽を見いだす」=サディズムでさえある。不幸を選択する際の快楽が歯痛である。
『罪と罰』創作ノート156頁にドストエフスキイ記す。
「盗みの快楽、乞食の快楽、懺悔と修道院の快楽、強奪の快楽、自殺の快楽」
ドストエフスキイはチェルヌィシェフスキイと功利主義者のいう楽天的な快楽論を逆手にとって、否定の快楽論を展開し、「自分の快楽が他人の快楽にもつながる」という彼らの快楽論の安易さを嘲笑しているようだ。『地下室の手記』の主人公は結局、最後はチェルヌィシェフスキイ相手に話しかけ、答えているといわれる。しかし、チェルヌィシェフスキイとだけ話しているのではない。自称「強烈な」自意識の所有者である主人公は、つまりドストエフスキイはチェルヌィシェフスキイの背後にある「時代」と対話し、対峙し、対決している。自分の内部のもう一つの自分、つまり他者と対話している。ドストエフスキイは対話の弁証法の天才である。
自意識の反対物=「直情型の人間ないし活動家が行動的であるのは彼らが愚鈍で視野がせまいからである」
明らかにバザーロフやロプホーフやキルサーノフらチェルヌィシェフスキイが崇める「新しいタイプ」の人間を批判している。「ぼくが自分を賢い人間とみなしているのは、ただただ、ぼくが何もはじめず、何もやりとげなかった、それだけの理由からかもしれないのである」
「正義を見いだしたのだから、当然、あらゆる点について安心できるわけであり、自分は名誉ある正義の事業を遂行しているのだという確信を抱いて、心やすらかに首尾よく復讐をなしとげることができるのである。」
これは、革命家のことを指している。「美にして崇高なるもの」
英露辞典では sublime= великое.возвышенное 。возвышенное は高邁な。возвышать道徳的に高める。ドストエフスキイは「崇高なもの」высокоеにしている。 высокое は高いという意味だから「至高なるもの」として解釈すべき。 だが露英辞典でвысокое=high.tall.elevated.sublime
水晶宮(ユートピア)=万国博覧会
水晶宮(ユートピア)は『何をなすべきか』の下巻にヴェーラの夢の中で出てくる(コマロービチ『ドストエフスキイの春青』128頁〜)。
「水晶宮」とは万国博覧会の喩え(メタファー)である。
万国博覧会逮捕されるまでのドストエフスキイはフーリエに熱中していた。フーリエとドストエフスキイの関係:「フーリエは平和主義者です」当時はサン=シモンもフーリエも同じように「空想」社会主義としてみられていた。万国博覧会は水晶宮クリスタル・パレスとしてみられていた。それはロンドンの博覧会(1851)が鉄とガラスでできていたから。
以下、鹿島茂『パリ世紀末パノラマ館』196頁より。
サン=シモンは産業の繁栄がともに資本家と労働者に利益をもたらす。そのために両者はキリスト教が教えるように「互いに愛しあう」相互扶助システムが必要で、それも現実的なものでなければならない。それを「新キリスト教」制度と呼び、全員が負担と利益をわかちあう「株式会社」の形態をとることになる。それは貧しい階級の福利の向上をめざす。サン=シモン主義とは産業主義を前提とした一種の宗教。1825年に『新キリスト教』を執筆し、実践に移そうとしたときに、病気で死んでしまった(1825)。彼の弟子のエコール・ポリテクニック出の人びとがサン=シモンの思想を受け継いだが、その一人ミッシェル・シュヴァリエは経済学者、コレージュ・ド・フランスの教授になり、第二帝政ではナポレオン三世の頭脳となって、パリ万国博覧会を計画した。サン=シモンが説く産業の発展と良質の製品の提供と、国民への勤労の刺激をあたえることが目的。『パリ世紀末』208企業による発明と工夫、産業改革と技術の向上、生活レベルの向上、現在の制度の肯定。つまり万博はサン=シモンやフーリエら進歩主義者の具体的な産物、ひいては共産主義の進歩思想のシンボルである。
二月革命に対抗するニコライ一世の断固たる宣言。
『ドストエフスキイ裁判』での証言:ペトラシェフスキイの会の目的について問われたときの返答「雑多な集まりで、混沌しかなかった」
ところで、『地下室の手記』が書かれたあとの、ロシアの政治情勢はどうなったか。1866年カラコーゾフのアレクサンドル二世暗殺未遂事件。バクーニンはロシアの青年のヒロイズムと犠牲的精神を「若い新鮮な力」として賞賛。1868年のベルヌで開かれた会議でバクーニンはロシアの革命青年をひどく楽天的に4万〜8万と踏んでいた。
重要な問題:監獄、流刑後のドストエフスキイは、「革命派」から転向したのだろうか。それとも、尋問で陳述しているように本来ユートピストであって、暴力的な革命派には属していなかったのだろうか。しかし友人の証言によると、熱した若いドストエフスキイは赤旗をもって真っ先に街頭にとびだしかねないときもあった。(グロスマン)
或いは、若きドストエフスキイは空想社会主義者だったが、ペテルブルグに戻ってきてからは、1860年代の過激な社会主義、ピーサレフ、ドブロリューボフ、チェルヌィシェフスキイらの中に、過去の自分の信奉とはまた異なる、浅薄で危険な思想を見いだしたのだろうか。
(7)『地下室の手記』の第2部
小説「ぼた雪にちなんで」
主人公、友人たちから無視される
娼婦の所に遊びにゆく
同情的な言葉
女それを信じて翌日訪れてくる
トップページへ戻る 注釈を読む 次の講義へ進む