「ヨーロッパ文化」講義録vol.6

〜ヴィクトル・ユゴー『レ・ミゼラブル』〜

目 次
(1) ミリエル司教と死刑囚 (2) 市長となったジャン・ヴァルジャン (3) メロドラマ・ゴシック小説
(4) 少年少女物語を超えるもの (5)『レ・ミゼラブル』の歴史的背景 (6)『レ・ミゼラブル』執筆のプロセス
(7)『レ・ミゼラブル』とボナパルト・ナポレオン (8)『労働階級と危険な階級』 (9) ロマン主義者としてのユゴー
 

(1) 処刑台の死刑囚とミリエル司教
 「死は神にのみ属するものだ。人間たちはなんの権利があってこの未知なるものに触れようとするのか」つまりヴィクトル・ユゴーの考えでもあった。

(教室でのビデオ放映場面)
 ミリエル司教があたえた銀の燭台がジャン・ヴァルジャンの生涯の良心と誓いの灯火となる。その後もジャン・ヴァルジャンは邪念に襲われることがあったが、銀の燭台を自分の良心の象徴として保存した。

処刑台の死刑囚とミリエル司祭
(鹿島茂『レ・ミゼラブル百六景』より)

 

(2) 市長となったジャン・ヴァルジャン
 ジャン・ヴァルジャンはマドレーヌと名を改め、人望をえて市長に任命される。しかし、ジャン・ヴァルジャンを追い回している刑事のジャベールがマドレーヌ市長ことジャン・ヴァルジャンの元に赴任してくる。他方でファンチーヌの不幸。娘を宿屋に残して、故郷で働き、高い扶養代金を月々支払っている。彼女は工場を追われ金のために娼婦にまで身を落とし、人びとからは侮辱をうけ、結核にかかっている。

市長マドレーヌを犯人として検束しようとする刑事ジャベール。
背景の女はファンチーヌ(鹿島茂『レ・ミゼラブル百六景』より)

コゼットの不幸
 母親のファンチーヌの死。コゼットは5歳で女中をやらされ、冬の暗い朝から箒をもって、目に涙をためながら、働かねばならなかった。コゼットのイメージは意地悪な継母と義姉たちにいじめられるシンデレラ姫の童話と重なって、虐待される子供というメロドラマの主題にさらに一つ現代的な要素をつけ加えることになった。コゼットの存在は19世紀前半の児童虐待の事実を語っている。20世紀の日本でもまだ続いている。


 

(3) メロドラマとゴシック小説
 ジャン・ヴァルジャンの更正
 コゼットのみじめな境遇
 監獄からの脱走
 警察の厳しい追跡
 スリルとサスペンス

ジャン・ヴァルジャンとコゼットを追うテナルディエ
(鹿島茂『レ・ミゼラブル百六景』より)

 大人が少年少女のために要約された『レ・ミゼラブル』(1851〜62)を冷静に読むと、社会制度の悪に耐えるジャン・ヴァルジャンの人間的更正と、コゼットの境遇がじつにセンチメンタルに感じられる。それで『レ・ミゼラブル』は感動的ではあるが、どちらかといえばお涙頂戴の「大衆小説」として扱われる傾向がある。
 もうひとつ、ヴィクトル・ユゴーの小説が『ノートルダム・ド・パリ』も含め「大衆小説」とうけとられやすいのは、ゴシック小説的要素が強いからである。船のマストから海中に落ちたふりをして監獄生活から脱出したり、コゼットとともに警察の厳しい追跡をかわして危うく修道院に逃れたり、31年民衆反乱のときにコゼットの恋人マリユスの一命をパリの地下水道で救ってやったり、スリルある場面で読者の興味をひっぱていく。


 

(4) 少年少女物語を超えるもの
 時代と歴史の把握
 諸階層の人間心理の洞察
 文体の躍動的な展開
 逸脱的な文章

修道院に逃げ込む二人
(鹿島茂『レ・ミゼラブル百六景』より)

 またユゴーの文章が躍動的で読者の心をつかんで離さない。文体が高揚的で展開的であるのみならず、作者の歴史観、社会観、さまざまな階層に属する人間心理の観察が抜群にすぐれている。分析が論理的、かつ総合的でもある。彼が『レ・ミゼラブル』という小説の枠で囲いこんだ歴史とはなにか、或いは『レ・ミゼラブル』を囲いこんだ歴史とはどこからどこまでを指すのか。
 

(5)『レ・ミゼラブル』の歴史的背景
 1814年 ブルボン王朝復活(ルイ18世)
 1815年 ワーテルローの戦い。ナポレオンの敗北(ジャン・ヴァルジャン登場)
 1830年 7月革命でルイ=フイリップ王即位。ブルジョアの隆盛と労働階級
 1832年 6月民衆暴動
 1848年 2月革命 ルイ・ボナパルト当選
 1851年 クーデターでナポレオン三世誕生
 1870年 プロイセンに破れ、第三共和制樹立
 

(6)『レ・ミゼラブル』執筆のプロセス
 『死刑囚最後の日』(1829)
 貧民街の実状を視察
 貧民街の地下住居
 ナポレオン三世への反抗
 ジャージー島への亡命

 ユゴーは1851年に経済学者ブランキ(革命家ブランキの兄)と貧民街の実状を視察し、国家による貧民救済の必要を痛感して、国会での(というのはこの頃彼はすでに代議士だったので)演説を予定していたが、ルイ・ナポレオンのクーデター事件のために演説できなくなってしまった。
 ルイ・ナポレオンが亡命地ロンドンから帰国して政界入りを果たそうとしたときは、自分の発行していた新聞「エヴェンヌマン」によって全面的に支持したユゴーだったが、ルイ・ナポレオンに権力への野心を読みとると、猛烈に反対した。(実際、翌年ルイは皇帝ナポレオン三世を名乗ることになる。)

貧民街の半地下室
(鹿島茂『レ・ミゼラブル百六景』より)

 その頃は「イヴェンヌマン」紙の政治評論はヴィクトル・ユゴー自身が書いていたと皆に思われていたが、実際は二人の息子たちが書いていた。翌51年にルイが皇帝になったので、ユゴー自身も身に危険をおぼえ、ベルギーに脱出。ベルギーでも監視下におかれ、英国領土のジャージー島に一家で落ちつく。愛人ジュリエットも自宅から見下ろせる別宅に住んだ。
 家族はたいくつな島暮らしで娘などは神経症にかかり、夫人も息子たちも離島したが、ユゴーだけは詩を書いたり、『レ・ミゼラブル』の創作に熱中するという充実した生活を送った。強調しなければならのは、ユゴーがフランスではロシアのプーシキンなみに国民的な大詩人として扱われていることである。

 『レ・ミゼラブル』の最後の資料を集め、執筆に集中したのは亡命10年後の1860年である。このときユゴーは作品を単なる社会小説から19世紀の叙事詩ふうな展開をもつ大規模のロマンにすることにした。


 

(7)『レ・ミゼラブル』とボナパルト・ナポレオン
 ナポレオンのロマン主義的要素

 作品におけるナポレオン
 ユゴーによるナポレオン評価
 ワーテルローの戦いをめぐって

都市改造の陣頭指揮をとるナポレオン三世(左)とオスマン県知事。
ナポレオン三世の都市づくり(鹿島茂『パリ・世紀末パノラマ館』より)

 ヴィクトール・ユゴーはつよくナポレオンを意識していた。その理由は以下の通りである。
A.ナポレオンが混乱していたフランスに統一と秩序をもたらしたヨーロッパ随一の英雄だった。
B.ナポレオンは政治におけるロマン主義の申し子だった。ナポレオンがフランス大革命の結果をヨーロッパにおしひろげ、民族的自覚という政治上のロマン主義をヨーロッパからロシアに至るまで広範な地域にひろげた。
C.ナポレオンは自身がロマン主義的風潮のなかで権力への階段を疾風怒濤の勢いでかけのぼり、また流星のようにわずか13年の短い政治生命をおえた伝説的な人物である。
D.ナポレオン自身もロマン主義的気質を持っていたので、ドイツのゲーテと会い、相互に敬意をいだいた。ヴィクトル・ユゴーも心情的にはロマン主義をを通して彼らに共通の要素を有している。

 作品の中のナポレオンについては、以下にみられる。

フランス騎兵隊の転落(豊島与志雄訳『レミゼラブル』岩波文庫より)

A.「神の力」ミリエル司教登場の場面。司教の門を叩いて、ジャン・ヴァルジャンが一夜の宿をこう。ミリエル司教は小説ではナポレオンの目にとまって司教に抜擢されるが、ミリエルのモデルになった実在のミオリス司教はナポレオンには会っていない。ヴィクトル・ユゴーはどうしてもナポレオンから司教の手にジャン・ヴァルジャンの救いを継承させたかったのだろう。

B.パリで貴族の青年マリユスを愛することになるコゼットとエポニーヌが二人とも、ワーテルローの戦いがあった1815年に生まれている。(エポニーヌはジャン・ヴァルジャンが迎えに行くまでのコゼットがいじわるく酷使された宿屋、テナルディエ夫妻の娘)

C.テナルディエはナポレオン最後の戦闘ワーテルローの戦場に下士官として参加し、マリユスの父親もこれに参加している。マリユスも父親とナポレオンとの関係を知って、育ての親である王党派の祖父から遠ざかる。

D.ワーテルローの戦いの場面。『レ・ミゼラブル』にはウェリントン将軍率いる英国軍とナポレオン指揮下のフランス軍が戦ったワーテルローの戦いが大きく扱われ、これが『レ・ミゼラブル』を叙事詩的な雄大なものにした。つまりユゴー自身が自分の作品をホメロスの叙事詩ふうに壮大な作品にするために、歴史上大きな位置をしめる戦闘を作品の構成部分の一部にしなければならなかった。

 ユゴーのナポレオン評価について。ユゴーは王党派から共和主義者となり、政治的立場を変身させ、政治的に成長するにつれて皇帝独裁の時代が過去の体制にすぎぬことを認識していた(岩波文庫『レミゼラゼル』第1巻593頁)。それはまた、ナポレオン三世独裁に対する批判とも重なっていた。

 具体的には三日天下のナポレオンが最終的にワーテルローの戦いで敗北した歴史的事実を、ユゴーが次のように評価していたことにつながる。ここにはボナパルト・ナポレオンだけでなくナポレオン三世の名も出てくる。(岩波文庫『レミゼラゼル』第1巻593頁)

 「ワーテルローの戦いの意味するところは、フランスに対抗するヨーロッパである。パリに対抗するペテルブルグであり、ベルリンであり、ウイーンである。進取に対抗する現状維持である。フランス革命への攻撃である。フランスの争乱に対抗する諸君主体制である」「しかしワーテルローは神の法を担っている」と。さらに引用すれば、「そして致し方なく立憲制がワーテルローの戦いから出てきたことも事実である。革命を取り除くことはできないからだ。革命は摂理的なもので決定的なものであるゆえに、つねに姿を現す。すなわちワーテルローの前においては、古い諸王位を倒したボナパルトのうちに、ワーテルローの後においては、憲法に同意し服従したルイ一八世のうちに現れた」(岩波文庫『レミゼラゼル』第1巻593頁)

 ヴィクトル・ユゴーは社会制度は進歩するという思想を持っていた。歴史に対する文明論的な視点。ナポレオンの退場には「神の力が働いた」(第2部1篇13章)

 

(8) 労働階級と危険な階級
『死刑囚最後の日』(1829)から『レ・ミゼラブル』へ:

 シュヴァリエは『レ・ミゼラブル』の次の一節を引用している「帝政と王制復古の時代、死刑囚はここを通ってパリにつれてこられた。(以下省略)(『労働階級と危険な階級』100頁)

 ヴィクトル・ユゴーはサン・シモンの「空想」社会主義に立っていた。

 『レ・ミゼラブル』でもジャン・ヴァルジャンとコゼットが路上で囚人の移送を目にする情景がある。これは監獄制度への批判につながっている。

 『死刑囚最後の日』の主題は『レ・ミゼラブル』のなかで十分に生かされている。

 『死刑囚最後の日』での死刑慎重論。ヒューマニズム。『死刑囚最後の日』の序文でユゴーは、「死刑を廃止せよというのではなく、慎重に論議すべきである。すくなとも裁判官が陪審らに『被告は情熱によって行動したかまたは私欲によって行動したか』という問いかけをすることにし、『被告は情熱によって行動した』と陪審員らが答える場合には、死刑に処することのないようにしたい」と書いている。

 ユゴーは暴動と反乱とを区別して暴力を否定し、反乱は暴力ではないとして、反乱を肯定している。『レ・ミゼラブル』の初稿では1832年6月の民衆蜂起を暴動として同情的にではあるが否定的に描いているのに、亡命後の最終稿では共和主義の立場から蜂起を反乱と規定している。「ユゴーのこうした暴動と反乱という区別自体、下層民を良い『レ・ミゼラブル』と悪い『レ・ミゼラブル』に分けて考えるユゴーの限界を示しているのではなかろうか」(鹿島茂による)

サン・シモン

 ユゴーはサン・シモンの「空想」社会主義に影響をうけていた。サン・シモンの空想社会主義による産業の発展によってブルジョアも労働者もともに利益と福祉を得ることができるという理想をいだいていた。マドレーヌの発明した新製品が博覧会でメダルを獲得したのも、マドレーヌが博覧会の推進者であるサン・シモン主義者の思想に共感していたことを示している。

基本的政治姿勢=『百六景』390頁
 ヴィクトル・ユゴーの各革命と反乱にたいする態度:1830年7月革命では全面的にルイ・フィリップを歓迎し、1848年2月革命ではオルレアン公妃による摂政政治を支持し、これを訴えて、バスチーユ広場では群衆にやじり倒された。

 ヴィクトル・ユゴーの政治的立場:母親の影響で若い頃は王党派だった。つまりルイ14世などのブルボン王朝支持に立場にあったが、パリに出てからは自由主義の洗礼をうけた。

 それからサン・シモンやフーリエの社会主義の影響をうけ、1949年に民主的な共和主義者になった。ユゴーは一貫して暴力否定をつらぬき、長い間政治的、社会的にはブルジョアや宮廷の支配層と交流していたが、精神と心情においては民衆の側に立っていた。それは『レ・ミゼラブル』を読めば一目瞭然だが、だからといって彼が共和派の暴力を認めたわけではなかった。

 ユゴーが共和主義者になるのが遅かったのは1893年の恐怖政治、ギロチン政治と2000人という犠牲を出した政治体制に不安をいだいていたからだと、自身がのべている。この恐怖政治を通してユゴーは民衆という名の労働階級に『労働階級と危ない階級』の二つの部分を見ていた。民衆のなかの暴力に走る分子を警戒し恐れていた。

 『百六景』72頁
 テナルディエはユゴーが民衆に無意識のうちに抱いていた恐れの対象。テナルディエは、コゼットを預かった宿屋の亭主であり、コゼットを渡すときにジャン・ヴァルジャンと取引した男だが、1815年のワーテルローの戦いではマリユスの父親を戦場で救った命の恩人であり、のちにマリユスの義父ジャン・ヴァルジャンの犯罪のことでゆすりにきた。犯罪とは労働者反乱のときに、ジャン・ヴァルジャンが下水道で人殺しをして肩にかつぎ、セーヌ川に捨てたことだという。マリユスはここであの時の自分を救ってくれたのが愛するコゼットの育ての親ジャン・ヴァルジャンであることを逆に知らされる。「悪党め、私の父親を戦場で救ったことに免じて許してやるから、今から米国に渡れ」と2万フランを渡す。

ルイ・シュヴァリエ著『労働階級と危ない階級』の危ない階級
 1830年の7月革命は、その直後から正統王党派と共和派の小さな暴動をひきおこしては鎮圧されたが、広範な民衆の不満が1832年の反乱をひきおこした。1817年にインドで起こったコレラが1831年フランス、パリのとくに貧民街に広がり、多いときには一日800人が死んだ。しかも本当は警察が毒物をまいているのだという噂が流されたので、貧民街では本気にして、そこを歩いていた数人がリンチで殺されたりした。そのうえ、廃品回収に関して、回収業者と大手会社との間でのトラブルがり、これも政情不安の一つの要因になっていた。

ルイ・シュヴァリエ『労働階級と危険な階級』みすず書房
表紙絵

 1882〜1883年、警部ジャベールの登場。徒刑囚看守から成り上がった。脱獄徒刑囚から警部になった人物がモデル。

 『労働階級と危険な階級』200頁でシュヴァリエによれば、ユゴーは『レ・ミゼラブル』に移行する段階で、貧困階級=危険な階級という民衆観をぬぐいさった。民衆のなかに理想社会建設の原動力を見るようになったのだ。

 1814年ブルボン王朝復活と王制復古。1830年の7月革命でブルボン王朝の傍系からルイ=フイリップがブルジョアジーの支持をえて王位につくが、産業革命の展開とともにブルジョアジーが社会的に重要な位置をしめ、労働者も都市に集まり、ここに社会主義運動が栄えた。

 社会主義運動について。サン・シモン、フーリエ、オーエン、エンゲルスは《反デューリング論(1878)において、マルクスと彼自身が創始した科学的社会主義に対比してそれ以前の社会主義を空想的社会主義と規定した。その代表者として19世紀初頭のサン・シモン、フーリエ(ファランステールのイラストがドストエフスキイの写真集にある。フーリエこそがユートピストにふさわしい)、オーエンがあげられ、以来この言葉は狭義にはこの3人を指して用いられる。エンゲルスはマルクス主義の特質を明らかにするために彼らを対置しているのであって、全面的に否定している訳ではなく、むしろ賞賛しているのである。彼らは「理性の王国」を目指したフランス革命が幻滅に終わったことをマルクスに先立って確言し、政治体制ではなく「産業」の中にこそ人間の協同関係が実現されるべきことを主張し、そのための社会組織を考案した。その批判性、思想性、人類の協同性に対する信頼はマルクスに大きな影響を与えている。

 7月王制はこれらの動きに対応できず、1848年に2月革命がおこる。第二共和制の宣言で一般選挙の実施。ナポレオンの甥のルイ=ナポレオンが当選。ナポレオン3世を名乗り、1851年クーデターをおこして帝政をしく。権力保持のため対外膨張政策をとるうち普仏戦争をおこし、1871年に敗れ、フランスは第三共和制に移行する。
 

(9) ロマン主義者としてのユゴー
 戯曲『クロムウェル』序文
 戯曲『エルナニ』上演は古典主義文学への勝利と見られた
 叙情詩人としての国民的名声
 女性たちとの華やかな関係

1.ブルボン家・王制復古3年目の1817年に、15歳のユゴーは母親の影響で王党派の詩人として登場。1820年代半ばからロマン主義文学運動の指導者となる。ロマン主義劇『エルナニ』上演。1830年頃、刑法の改善につくす。

2.1845年に代議員になり政治活動に。宮廷の信任をえていたが、ルイ・ナポレオンの権力への傾斜・クーデターに反抗し、ベルギーとその後は英国領の島に亡命を余儀なくされる。

3.ナポレオン3世批判の手をゆるめなかった。イタリア統一運動・民族運動や、アメリカの奴隷解放運動など社会改革を積極的に支援した。

4.1870年9月、第二帝政が崩壊してのちヴィクトル・ユゴーはフランスに国民的英雄としえ迎えられ、第三共和制下で民主主義の先頭に立った。

 マリユスは若き日のユゴーその人といえよう。というのは、王党主義のせいで共和主義とナポレオンを憎悪していたこと、そしてブルボン朝の復活を願う母親の影響のもとにユゴーが育ったことからである。

 マリユスは祖父に育てられたが、ナポレオン軍の勇敢な将校だった父親の死に立ち会い、事実を知って、反抗し、自立して貧しい生活を送っていたところ、革命とロベスピエールとナポレオンが立ち現れ、世界観が変わった。ヴィクトル・ユゴーはマリユスの思想の転換をこう書いている。「1.王党派、2.ボナパルト主義者、3.共和主義者」これはユゴー自身の転換のプロセスでもある。

 ミュージカル『レ・ミゼラブル』は、1980年パリで初演。26カ国で上演され、観客動員は世界で4000万人以上。

 1862年に小説『レ・ミゼラブル』の初版が販売されたときの熱狂ぶりもゲーム・ソフト購買者の行列の比ではなかった。19、20世紀を通して超ロングセラーとなる。

 1985年、ユゴー没後百年を記念してグラン・パレでユゴー展が開催されたが、出品された絵で一番多かったのがコゼットと『ノートルダム・ド・パリ』のカジモドだった。コゼットのイメージは意地悪な継母と義姉たちにいじめられるシンデレラ姫の童話と重なって、虐待される子供というメロドラマの主題をさらに一つ現代的な要素をつけ加えることになった。コゼットの存在は19世紀前半の児童虐待の事実を語っている(ここまでは鹿島茂『パリ・世紀末』による)が、現在の日本で児童の人権を守るための運動が生じていることを考えるなら、ユゴーのメロドラマはきわめて現実的な問題を提出していることになる。

 ヴィクトル・ユゴーは父親が軍人・将軍で爵位までもらった人物に似て、容姿にすぐれ、たいへん情熱的な男で、魅力的な女性がいるとすぐにその女性を天使や女神に祭りあげて、自分の思いを詩にあらわして相手に捧げ、数々の浮き名を流した。したがって後にユゴーの評伝を書いた有名なアンドレ・モロワなどは、ユゴーのこうした女性関係を皮肉っている。

ヴィクトル・ユゴーとジュリエットの肖像(アンドレ・モロワ『ヴィクトール・ユゴーの生涯』より)

 ヴィクトール・ユゴーはある夫人と関係をもち、しかも彼女とベットに入っている現場を、警察に押さえられた。夫人は拘置所に入れられ、ユゴーも危うく逮捕されかかったが、代議士の身分を楯に警察を威圧して、その場をのがれ、妻のアデールではなく愛人のジュリエットとともにパリの北東20キロのオンフェルメイユの町に身をかくした。これがエナルディエ夫婦の宿屋のモデルとなる。1845年のことである。
 この直後、ユゴーは『レ・ミゼラブル』の原型に当たる原稿を執筆し始めたのである。(小倉孝誠『19世紀フランス光と闇の空間』人文書院1996)

 

お奨め文献
 ヴィクトル・ユゴー『レ・ミゼラブル』岩波文庫
鹿島茂『レ・ミゼラブル百六景』文春文庫
アンドレ・モロア『ヴィクトール・ユゴーの生涯』
シュヴァリエ『労働階級と危険な階級』みすず書房
鹿島茂『パリ・世紀末パノラマ館』角川書店
その他多数



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