「ヨーロッパ文化」講義録 vol.5 (2000/05/24)

〜 スタンダール『と黒』 〜

目 次
(1)『赤と黒』の歴史的背景 (2) イタリア遠征従軍の意義 (3) スタンダールのナポレオン観
(4) 国際政治におけるフランスの影響 (5) スタンダールとロシアの接点 (6) ナポレオンとスタンダールの共同運命
(7)『戦争と平和』 (8) 帰国後のスタンダール (9)『赤と黒』に向かって (10) 七月革命と『赤と黒』
(11)『赤と黒』 (12) スタンダールは何を考えていたか
 

(1)『赤と黒』(1830)の歴史的背景
 繊細な美青年のジュリアン・ソレルは製材所の息子だが、兄たちとちがって、知能にすぐれ、読書家である。彼が賛美するのはナポレオンだが、すでにナポレオンの時代ではなく、ブルボン朝の王制復古の時代であるために、宗教界に入るのが、出世の最良の道であると考えていた。知り合いの司祭が彼の記憶力を高く買って、町長の家族の家庭教師に推薦した。ジュリアンは初め、野心のためにレナール夫人と関係するが、やがて純真な美しい夫人を本気で愛するようになる。しかし、当然のように引き離され、本人も自覚して遠い町の神学校に入り、孤独な忍耐の生活を強いられたのち、校長の推薦でパリのラ・モール侯爵の秘書として働くことになった。

 侯爵家の気位の高い美しい娘マチルドは、周囲の洗練された無気力な青年貴族にあきたらず、ジュリアンに接近した。ただ前進あるのみとの義務感と名誉心だけで動いていたジュリアンは、このときもやがて本気でマチルドを愛するようになり、二人は駆け落ちする。絶対に結婚を許さなかった侯爵も、司祭のとりなしで仕方なく譲歩したが、その時レナール夫人が戒告師に強いられて述べた、ジュリアンを誹謗する手紙が侯爵に送られてきた。

 窮地におちいったジュリアンは直ちに郷里に戻り、教会でお祈り中のレナール夫人に向けて発砲する。幸い夫人は死をまぬがれたが、ジュリアンは獄中で初めて自分の愛する相手はレナール夫人だったことに気づく。ジュリアン・ソレルは死刑を宣告される。

 ジュリアン・ソレルの人物像はスタンダール自身の(空想の)一部であることも事実だが、うした個人的な要素より、次にのべるような時代がジュリアン・ソレルを登場させる背景となっている。

 1789年のフランス大革命時代から93年に始まるダントン、ロベスピエールの恐怖時代をへて、18世紀末におけるナポレオンの登場、総裁政治を倒し、執政権を掌握し、やがて皇帝になり、1812年ナポレオンがロシアを攻めて敗北にいたり、1815年のワーテルローの戦いによる、最終的なナポレオン失脚と、ルイ18世の復活、1830年の七月革命にいたる時代。
 

(2) イタリア遠征従軍の意味
 スタンダール(1783〜1842)自身はこの時代をどう生きたのか。

 本名はベール。ナポレオンの登場を少年時代に心を躍らせながら迎えている。グルノーブル出身。パリに出てきて遠縁の実家ダリュ家に寄留し、劇作家修行をつみ、『諸情熱の言語』その他のノートを書きためていた。これがのちの『恋愛論』や『赤と黒』の栄養分となる。この頃から前の時代に属する『告白』の著者ルソーに熱中するようになった。奇妙なことだが、同時に銀行設立の夢も持っていた。

写真左:スタンダールの肖像

 ダリュウ家には息子のピエールという有能な将校がいて、これがスタンダールを軍隊に引き込んだ。陽の目を見ることのない、屈折した文学青年のスタンダールはいやいや軍隊に身を投じることになった。実はこのときナポレオンは第二次イタリア遠征(1800)を企てていたので、ピエールがスタンダールを軍隊に引き入れた。世俗的にいえばスタンダールは親戚の引きで、いわゆる出世のためには有力な仕事に就いた。ナポレオンが皇帝に就くのは1804年12月。

 文学青年のスタンダールが17歳の騎兵少尉としてナポレオン軍にまきこまれたことは二つの意味を持っている。第一は、かれが直接身をもってナポレオンの織りなす歴史に参加したこと。軍人になったことでかれはナポレオンのロシア遠征にも参加することになる。ナポレオンは彼にとって他人ごとではなくなった。とくにロシア遠征ではスタンダールはナポレオンと生死をともにしたと言っていい。

 さてナポレオン軍にまきこまれることで生じた第二の意義は、第二次イタリア遠征で群小国を統括することになったフランス軍に属するスタンダールが、ナポリの土地ですっかりイタリア・ファンになったことである。スタンダールはイタリアの自然に陶酔し、イタリアの女性に夢中になり、イタリアの生活習慣がすっかり気に入るようになりました。しかもイタリア的な立場からフランス、とくにパリ人種を批判するようになる。それが、そのまま後に『赤と黒』の活力あるジュリアン・ソレルの登場と、ソフィトケートされたパリの社交人種への批判に結びついく。こうしてスタンダールはイタリアの領事にもなるし、のみならず『イタリア絵画史』や旅行記など数々の著書でイタリアの紹介をしている。

写真右:イタリアの風景

 『イタリア紀行』も『イタリア絵画史』も単なる旅行記や絵画の歴史ではなく、スタンダールの人間性や視点がはっきり出ているイタリア社会である。ローマ法王の息子が神学校でホモ行為にふけり、神学校をおえてからは、旅行中に有名な有徳の若い司教に会い、この町で女と遊べる所はないかと聞き、「私はその方面では疎いものですから」との答を聞き、翌日は司教の別の願いを叶えるようなふりをして、呼び寄せ部下を使ってこの若い司教をレイプし、ついに心理的ショックで若い司教を死にいたらしめる。こんな話を紹介している。

イタリアの状況説明:
 1796年の第1次遠征についてはスタンダールは、ナポレオンがイタリアに民族的統一をもたらした、と見ている。(室井庸一『スタンダール評伝』読売新聞社44頁を参照)
 しかし、ミラノの人びとはフランスに従属していることを内心は快く思わず、フランスの統治に反発していた。ここに音楽や絵画やオペラや劇場や風景をエピキュリアンふうに楽しむために滞在しているスタンダールと、ミラノの知識人との違いがあった。
「先進国の知識人スタンダールは従属国の人びとのこの屈折した思いを分かちあうことができなかった」(松原雅典『スタンダール愛の祝祭』182〜183頁を参照)
イタリア人はまず自分の国を独立させねばならなかったのだ。

イタリア女性との関係:
 ロシア遠征以前のミラノ滞在中の愛人アンジェリーヌ。ロシア遠征後のイタリアでのマチルダへのプラトニクラブ。マチルダはひじょうに個性的な人で、のちの『赤と黒』のマチルドの名はここから採られている。ナポレオン軍がロシアに敗北してのち、スタンダールは再びミラノを訪れるが、いまやナポレオンも配所の月を眺め、過去の威光しかもたぬスタンダール自身、敗走で外見的にも歳をとり(30歳)、2度目の滞在ではアンジェリーヌに相手にしてもらえなかった。
 

(3) スタンダールのナポレオン観
 スタンダールは少年のときからナポレオンを英雄として崇拝していたが、ナポレオンはまもなく総裁政治を打倒し、統領政府(或いは執政官政府)を作り、1802年に終身統領となり、1804年に皇帝になる。ナポレオンは「ナポレオン法典」で法律を確定し、教育制度をうち立てる。

 しかし、ナポレオンが独裁的な地位を占めるようになる頃から、自由主義者のスタンダールはナポレオンの態度を否定的に評価するようになった。それでも『赤と黒』の中のジュリアン・ソレルにとってナポレオンは聖なるお守り袋だった。ただしブルボン王朝のルイ18世が皇帝の座についた王制復古の時代に、ナポレオンを英雄扱いすることは危険視されていたので、ジュリアンはナポレオンの小さな肖像を持っていることをひた隠しにしていた。(スタンダールが『赤と黒』を執筆を始めたとされるのが1816年、終えたのが1830年)

写真左:ナポレオンの肖像

 写真右:ロシア皇帝アレクサンドル1世
 

(4) 国際政治におけるフランスの影響
 ナポレオンは急速にフランスの国際政治力を高め、フランス大帝国を樹立した勢いで、ヨーロッパ諸国を支配下におくことになった。その影響下にあって、全ヨーロッパの諸制度の改革がナポレオン流におこなわれた。しかしイギリスだけはナポレオンの意図に従わなかったので、ナポレオンはイギリスに穀物を送らないよう大陸封鎖令を出した。これにはイギリスはもちろんロシアまでが不満をいだき、皇帝アレクサンドル1世が反抗した。それでナポレオンは全ヨーロッパ軍を編成し、ロシアへの遠征を企てた。
 

(5) スタンダールとロシアの接点
(教室では、両角良彦『1812年の雪』の最初の地図をOHPで使用)
 20万のフランス軍と50万の同盟軍がロシアに向かい、この戦闘にスタンダールも参加することになった。

ニーメン川渡河作戦:
 18カ国の軍隊。渡河に一週間かかる。このときナポレオン42歳。元帥連も40歳代。ナポレオン直属の5万の近衛兵を除いては、戦意はなかった。兵隊の数だけの「酒保女」は洗濯や繕い物、生活品の売買をした。負傷兵には献身的につくす。将校たちの妻や愛人たち、家族とともに子供さえいた。軍隊の行列はえんえんと続いた。

 スタンダール『イタリア絵画史』でナポレオンの同盟軍がニーメン川(或いはニェーメン川、ナイマン川とも呼ばれる)を渡河した際の情景が描かれているが、実際には彼はこの渡河作戦には参加していなくて、まだフランスにいた。その後かれは『イタリア絵画史』の清書原稿をもって、ヨーロッパ軍のあとを追い、やっとロシアのスモレンスクで合流した。スタンダールは皇后マリア・ルイーズのナポレオン宛の手紙をたずさえて、9月14日モスクワにナポレオン軍と同時に到着した。

 ロシア軍を追撃する最初の行軍だけで、食料不足が生じ、下痢による落伍者があいつぎ、自殺者は数百人に及び、ボロジノの闘いでは13万の仏軍は輜重と医療の欠陥を露呈した。側近たちはナポレオンにとどまるように忠告したが、彼は耳をかさず、追跡、また追跡で、ヨーロッパ合同軍はすでに疲れきる。

 ボロジノ前後の戦闘について、トルストイは『戦争と平和』で、ロシア軍は決して撤退作戦を策したのではなく、やむなく敗退したのだとのべている。いずれにしろ、「撤退作戦」と同じプロセスをたどることになった。逆にいえば、ナポレオンはモスクワに入城する前に最後の戦闘があると予想し、それで一気に勝負がつき、有利な講和をひきだすつもりでいた。ところが、そうはならなかった。ナポレオンの速戦即決の戦法はみごとに裏切られ、怖ろしい泥沼にひきこまれてゆく。

『戦争と平和』岩波文庫4巻95頁戦場で死に瀕してアンドレイ公爵の心境(コピー配布資料)

20万の軍はいつのまにか13万に。1812年9月14日、3万を後方に残しながら、疲弊しきったナポレオン軍10万が無人のモスクワ(当時人口27万)へ侵攻。

(教室では、ビデオで映画の一場面「無人のモスクワへナポレオン軍入城」を見た)

 9月20日、ナポレオンは和平の親書をアレクサンドル皇帝に渡す。しかし反ナポレオンのロシア宮廷はこれに応ぜず、11日間も返事がないので、ナポレオンはいきりたち、ペテルブルグ侵攻を発案し、元帥たちに反対される。ロシア側はその後もナポレオンの和平交渉をきっぱりことわる。ナポレオンの側近たちはロシアでの農奴解放令を発布して、農民を反ロシア皇帝に立たせることを思いつくが、ナポレオンはヨーロッパ同盟国の反応を予想して、発布をしぶる。

 早くも占領軍にはパン、肉類、衣類、靴の不足がめだってきた。

 10月16日最後の和平交渉が失敗した。

 ナポレオンがクレムリンに三色旗をかかげた9月14日以来あちこちに火の手があがった。モスクワの消防ポンプはすでに撤退していた。18カ所から出火。放火犯は釈放された囚人たち。看守が酒と火種をあたえてそそのかした。ナポレオンは怪しい連中を全部逮捕するように命じたが、すべての平定はできなかった。フランス兵と囚人との間で激闘さえ生じた。

(教室では、ビデオで映画の一場面「モスクワ大火」を見た)

 ナポレオンも回想記で驚くほどののすさまじい大火がモスクワをなめつくす。16日には放火現行犯はすべて射殺せよとのフランス側の命令。ただちに実行された。17日に火勢がやっと下火になり、ナポレオンはクレムリンに戻ることができたが、モスクワ全市の木造家屋の7割6500戸が消失した。ナポレオンは400名の放火犯を逮捕した。トルストイは「放火がなくとも自然失火で大火災はありうる」と『戦争と平和』で強弁し、モスクワ市長ロストプチン伯爵も11年後に放火ではないと弁明しているが、彼の命令による証拠も残っている。

 最後はナポレオンの厳命にもかかわらず、ポーランド、スペイン、イタリアの兵士が略奪にかかわり、のちに全兵士が感染した。この略奪騒ぎのさなか、スタンダールも例のパリで寄留したダリュー家のピエールに適した住居を探すためある貴族邸に入りこんでいる。(室井庸一『スタンダール伝』読売新聞社120頁を参照)

 1812年は異常温暖気候だったので10月6日になっても、モスクワの気候はまだパリの秋と変わらなかった。側近が気候の急変を予測し、注意しても、ナポレオンは笑って相手にせず皇后マリー・ルイーズにその旨手紙を書いている。しかし10月13日初雪が降り、急きょ、撤退をきめざるをえない。

 10月18日の朝、撤退の閲兵式をクレムリンで行っている間に伝令が馬をとばしてきた。8万のロシア軍の攻撃をうけ、合同軍側に2500人の戦死者をだしたという。モスクワからの9万人の退却は朝から夜までかかった。

 コサックと農民パルチザンの報復ゲリラ戦が始まる。コサック軍団総司令官はナポレオンの逮捕をねらって人相書きまで配布した。あわやの場面もあったので、そのときからナポレオンは軍医に毒薬を調合させ肌身離さず持ち歩くようになった。

 10月25日クトゥーゾフ将軍の反撃が始まる。退却するナポレオン軍との戦闘で双方に戦死4000、負傷3000。ナポレオンの危機。『戦争と平和』ではトルストイのナポレオン批判が描かれている。追撃のロシア側も20万の被害を出した。ナポレオン軍は落伍者とは別に毎日1000人以上の凍死者をだした。

あるエピソード:
 一軒に800人、夜中にたき火から燃え移って全焼、救出されたのは7人のみ。11月9日ナポレオン皇帝はスモレンスクに入った。零下27度、数千人の兵士が凍死した。モスクワからスモレンスクまでの20日間にナポレオン軍は6万3000の兵を失った。
 10月末から食料の不足が始まり、ロシア兵捕虜が射殺される。ネイ元帥の後衛戦で5000のナポレオン軍帰国。遠征時は42万2000だった。ロシア側の報告では13万が捕虜。では残りは・・・。トルストイ『戦争と平和』岩波文庫4巻232頁では「ロシア軍もこれ以上のことをすれば自滅しただろう」と述べられている。
 

(6) ナポレオンとスタンダールの共同運命
 フランス同盟軍は1812年9月の半ばにモスクワ占領を果たし、スタンダールはモスクワのあちこちでの火事を横目に『イタリア絵画史』その他の原稿を執筆しつづける。ところがモスクワでは、どうやら知事が計画的に放火したらしいのだが、火事が収まらない。モスクワの10月といえば0度以下の厳寒で、同盟軍は泊まる場所も食料もなく、飢えと寒気にさらされて退却を余儀なくされる。

 退却にあってスタンダールは、食料調達の命をうけ、ナポレオン軍撤退の3日前にモスクワを発つ。おそらくスモレンスクで飢えと寒さで疲労しきった敗走するナポレオン軍を迎える輜重隊のなかにいたのだろう。食糧不足について、スモレンスクのナポレオン軍輜重隊は指揮官が補給の伝令を受けなかったと弁明したが、実際は補給担当将校が家畜をユダヤ商人に横流ししたためで、全く食料調達が整ってておらず、ナポレオン軍兵士たちは悲惨な境遇におかれる。

 スタンダールは、ロシア軍の追撃に遭い、敗走する集団が兵士ではなく、無秩序な無頼の徒であることを目のあたりにした。飢餓と寒気で死にそうになりながらも、最後の気力をしぼって、食料を調達し、命辛々パリに逃げかえり、パリに足を踏み入れて初めて人心地がつくという有様だった。3ヶ月半かかって3000キロの行程。『イタリア絵画史』の原稿も紛失してしまう。

 この遠征でスタンダールが見たのは醜い人間の生き地獄である。スタンダールの日記や書簡にはナポレオン軍がロシアに侵攻したことへの歴史的意味や評価については全くふれず、主観的な経験のみの記述におわる。曰く、

私はいくらかノートをとっていたのを失ってしまった。(・・・)ただ、この旅だけは、腰の重い文士どもが千年かけても発見できないような事柄を見たり感じたりしたという点で、パリから出てきた甲斐があったというものだ

 パリに命からがら戻ったスタンダールはしばらく虚脱状態にあった。
 

(7)『戦争と平和』
 ロシア側ではこの戦争を「大祖国戦争」と呼んでいる。トルストイは1812年のナポレオン戦争、つまり「大祖国戦争」を主題として半世紀後にロマン『戦争と平和』(1865〜1869)を数年かけて書いた。

写真下:トルストイ肖像
 『戦争と平和』はナポレオンの話から始まる。ペテルブルグの社交界で最有力な人物が最初の1ページからナポレオンの話をする。しかもナポレオンの恋愛についての噂。二人の主人公アンドレイ公爵とピエールとがこの夜会で姿を現す。ピエールはナポレオンを讃える。「ナポレオンは革命の上に立っている。革命の悪用をおしつぶして、市民の平等、言論の自由など一切のよいものを守ったからです」

 『戦争と平和』に登場する二つの戦争は1805年のオーストリツの戦いと1812年のボロジノの戦いである。ロマン『戦争と平和』は冒頭からアンドレイ公爵がクトゥーゾフ将軍指揮下の副官としてオーストリツの戦いに参加することを読者に明かしている。

 アンドレイ公爵とナターシャとの関係が物語展開の一つの軸になっているが、このロマンはギリシャのホメロスの『イリアス』や『オデッセイ』に相当する19世紀文学の叙事詩だといわれているほどに、単なる恋愛とか友人関係とか家庭のことだけでなく、戦争という大きな歴史の事象にまきこまれる人間の生活を描いた壮大な一種の絵巻ドラマなのである。

 『戦争と平和』には、トルストイが現地を訪れて観察、沢山の資料によっては非常に客観的にナポレオン戦争を描いた場面がある。それは「ボロジノの戦い」の場面での、瀕死のアンドレイ公爵の心境描写である。(トルストイ『戦争と平和』岩波文庫4巻95頁)

 そのとき退却するナポレオン軍に連行されるロシア側の捕虜のなかに『戦争と平和』の重要な登場人物、若いピエール伯爵と老農民兵プラトン・カラターエフがいた。プラトンの名が何を意味するのか今の所不明だが、この農民は自分なりの深い思索と知恵をもち、伯爵になにかと生きるヒントをあたえる。これも傍系ながら重要人物の一人。これはトルストイが民衆との接触をとおして得た「ナロード」像の結晶。
 

(8) 帰国後のスタンダール
 虚脱状態から脱しつつあったスタンダールは、その後イタリアに滞在して『イタリア絵画史』を仕上げ、またイタリアのロマン主義者やイギリスのロマン主義詩人バイロンと親しく交わった。これがスタンダールのロマン主義的傾向を強めた。そのほかには『恋愛論』(1820)も書く。

 1822年イタリアからパリに戻ってからのスタンダールはジャーナリストや文学者の集う、ある知的社交界に紹介され、ジャーナリズムでのコネを得てなにかと文章を発表し、さらに多少の知名度を高めた。このサークルで画家のドラクロワや、スタンダールより20歳若い『カルメン』の作者メリメと会い、親交を結ぶ。メリメの有名な小説『カルメン』は演劇、オペラ、バレエなどでも知られている。そしてスタンダールの『イタリア絵画史』も刊行されることになる。
 

(9)『赤と黒』に向かって
 いよいよ『赤と黒』に近づいてきた。
スタンダールは自分の生死に敏感だったのだろう。病気と体調不良もしばしばだったらしく、40歳になると借金の返済や遺体を収める墓地を指定した遺書をしたためている。

 さて1829年南仏の地方都市で起こった「ラファルグ事件」が『赤と黒』執筆に大きな動機を与えた。この事件の被告ラファルグは家具職人で、女性関係で死刑には至らなかったが、スタンダールは彼をある階層(プチブル)の代表者とみて賞賛している。

 「パリ社会の上流階級が、力と忍耐をもって感じる能力を失っているときに、プチブルの中には、あまたの情熱が恐るべきエネルギーを拡大している。この事実はラファルグ氏のように、良い教育はうけたが財産がないので働かねばならず、真の要求をもって戦い抜いている青年たちの間にはっきり現れている」(『ローマ散歩』)

 スタンダールの郷里グルノーブルで、神学生が地元の上流夫人をピストルで撃ち、弁明もせず死刑を甘受する、という事件もあった。

88スタンダールは、パリは優雅で上品だがエネルギーが欠乏していると考え、イギリスやイタリアの首都も将来そうなるのではないかと憂慮している。つまりヨーロッパの産業革命が始まろうとする前夜に、芸術家としてのスタンダールは「19世紀の芸術や文学の困難さを」を予感していた。
 

(10) 七月革命と『赤と黒』

一八三○年七月革命:
 庶民や労働者の手で行われた。ナポレオン王制復古時代の支配者だった土地貴族がひきさがり、ブルジョアジーが七月革命で支配権をにぎった。土地所有者の衰退は都市産業の発展の必然的な結果でもある。ルイ・フィリップの政策は、ブルジョアジーとカトリックの優遇と、ナポレオン帝政時代に要職にあった人びと(その子弟たちも含めて)の復活であった。

写真左:ドラクロア『民衆を率いる自由の女神』

 スタンダールもこの波に乗ってイタリア領事の職をえた。またカトリックは国教であることを止めさせられたが、優遇されたので、寄進と遺贈で教会や修道院が豊かになった。彼は、首都より地方にフランスの将来の発展における希望をおいていた。地方の農民たちは革命以降の彼らの地位向上に満足しているので、革命の成果を踏みにじろうとしているとして聖職者たちに敵対していたのだ。しかし、スタンダールはのちに『南仏旅行』ではブルジョアジーの現状に不満をおぼえ、反語的ではあるが貴族時代や専制国家をなつかしんでいる。スタンダールが貴族とブルジョアジーの間を迷ったのは、当時の芸術家としては普通だった。また、共和主義に対してスタンダールはかなり不公平な態度をとっている。
 

(11)『赤と黒』
 1827年7月、家庭教師をしている神学生ベルテが教会を訪れ、礼拝中のミシュー夫人をピストルで射殺した。ベルテは翌1828年2月にグルノーブルの断頭台で処刑された。スタンダールが事件をくわしく知るのは、半年後にイタリアより帰国してから。さらに10月25日夜、マルセーユで過ごしたときに「着想」と記す。創作と執筆にむけてスタンダールの用いる「結晶作用」が行われる。つまりスタンダールは事件をなぞって創作するのではなく、自分の内部の観念作用の原理に基づいて創作するのであり、事件は執筆動機を促したにすぎない。

 筋書きについては本論の冒頭にある。また、『一冊で世界の名著百冊を読む』友人社、『世界文学講座』新潮社、その他にも筋書きは収められている。

 さて、主人公ジュリアン・ソレルはスタンダールのいろいろの意味での分身であり、マチルダはスタンダールの適わぬ恋の対象だったミラノ社交界のマチルデ夫人だった。年齢も置かれた状態も全く異なるが、感情移入しているのだ。

 最初の部分で前述したように、イタリアを統一したナポレオン進駐軍の一員としてのスタンダールは、すっかりイタリアの自然に陶酔し、生活習慣が気に入り、のみならずイタリアの女性たちともさまざまな関係をもつようになる。スタンダールはイタリア人の情熱とエネルギーを引き合いにだして、洗練されたパリ上層の人工的な生活、冷淡さ、無気力をてきびしく批判する。この視点がのちの『赤と黒』に登場するパリの上流社交界に属する少女マチルドや、彼女にむらがる青年貴族たちを描写するときに、生かされる。

 1819年イタリア滞在中に書かれた『恋愛論』には意地や自尊心と恋愛の関係が描かれている。この書はスタンダールがミラノの社交界の花、マチルド・ヴィスコンチーニという、ポーランドの将軍・男爵夫人に一目で恋したあと、何ヶ月もの失恋の憂き目をなめてのち、その年の暮れに書かれた。

写真右:「ヘロディアス」ベルナルティーノ・ルイーニ画

 意地や自尊心という情念の分析は『赤と黒』にもつながる。ジュリアン・ソレルの恋愛はまるで意地と自尊心の恋だからである。最初の女性レーナル夫人はひどく人柄のよい夫人だったが、パリでの相手マチルドはジュリアン・ソレルと対をなすほど誇りと自尊心の強い娘だった。

 『赤と黒』の最後でマチルドがジュリアンの首をもって馬車に乗るが、これがスタンダールの原イメージであり、このイメージを目標にひたすら『赤と黒』を書きすすめたのという説も、松原雅典『スタンダールの小説世界』(みすず書房)にある。

 恋愛という領域のなかで最初は意地や自尊心や自負心に動かされながらも、ついにはそれらを超え、日常性と個人を超えて非日常的なもの、「高揚したもの」に突き動かされて走り始める人びとの姿が描かれ、「高揚したもの」の時代的な典型としてナポレオン像が限りなく引用される。レーナル夫人との恋愛はジュリアンがナポレオンをめざして登る、超えねばならぬ階段の一つだった。

『赤と黒』解釈の若干のキーワード:
「ナポレオン」「ブルジョアジー」「地方青年層」「プチブル」「産業革命」「土地貴族」「イデオロギーとしての宗教否定」

スタンダールの創作理論:
「人間行為の真の動機を発見する技術」「論理の重要性」「即ち、我々を誤りなく幸福に向かって進ませる技術である」

 『恋愛論』は売れなかった。そもそも、スタンダールの小説自体が19世紀にはあまり高く評価されなかった。

スタンダールとロマン主義:
 「ロマン主義とは、国民にその習慣や信仰の現状において最大限の快楽をあたえられる文学作品を提供する術である」
ドラクロワを激賞して「あの若いドラクロワにあって特別の評価に値するものは勇気である。彼は自分が何物でなくなるかもしれず、アカデミアンですらないかもしれない危険をおかした」(「1824年の美術展」)

 『赤と黒』執筆中に七月革命勃発。1848年七月革命へのスタンダールの態度

 作者の読者への直接の語りかけは、スタンダールの独創ではない。19世紀ロシア文学のゴーゴリやトルストイでも指摘される「逸脱」は英国のスコットらも用いている。

 ロマン主義。革命。王党派と共和政治。貴族とブルジョアジーの間で。

 映画『赤と黒』(1)はある国の革命家アルタミラとジュリアンが話している所にマチルドが割りこんくる。
 映画『赤と黒』(2)は裁判官と陪審員を前にしての最後の宣言。階級的対立。階級的敵意。
 

(12) スタンダールは何を考えていたのか
 スタンダールは18世紀啓蒙主義の弟子だった。政教分離と議会政治の確立について、彼はまず宗教を貴族から引き離すことを考えていた。宗教は貴族や皇帝には必要だったが、ブルジョアジーの自由な社会の発展には障壁だったからである。

写真右:スタンダールの肖像

 七月王制下ではカトリック教会の隆盛と権力の教化。労働者の貧困と政府の側からの労働者の動きへの弾圧がはげしかったので、1834年4月9日、大工業都市リヨンで労働者の反乱がおこった。参加した5000〜6000人のうち一割が銃殺された。4月13,14日にはパリに飛び火した。共和主義者と労働者たちの反抗を示す。(この反乱はビクトル・ユゴーの『レミゼラブル』でとりあげられる)

 これに対する抑圧として七月王制の側から反動的な政策がとられた。スタンダールの幻滅。

 

お奨め文献
スタンダール『赤と黒』新潮文庫
松原雅典『スタンダールの小説世界』みすず書房
松原雅典『スタンダール愛の祝祭』みすず書房
松原雅典『「赤と黒」の解剖学』朝日選書
室井庸『スタンダール評伝』読売新聞社
両角良彦『1812年の雪・モスクワからの敗走』みすず書房
その他多数



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