(1) 東西両教会の分裂
省略
左:ランスの大聖堂(前川道郎『ゴシックということ』より)
(2) 外観の特徴
ヴォリンガー『ゴシック美術形式論』に従って文学的、哲学的に表現するなら、以下のようになるであろう。
狂奔し痙攣しながらの上昇運動を獲得したゴシック建築様式は、神を中心とする宇宙の喪失を予感しながら、調和を持たぬ近代人が超越的なものをさらに志向し、「神」と人間の牽きあう緊張感のもとに高揚する精神を隠喩的にあらわすものだった。そびえたつ尖塔には「崇高なるもの」への恍惚と同時に地獄への落下の不安も秘められている。上:ゴシック聖堂の横断建築図形と寺院の屋根の怪物形の雨樋
(3) 聖堂内の時空間
石積みの壁で建物を支えなくてよくなったので、壁を少なくし窓をつけることができるようになった。その窓にキリストや聖母マリアや聖者を焼き付けたステンドグラス(焼き絵ガラス)をはめこみ、外の空間から採光できるようになり、内部空間を神秘的にすることができた。
さらにやや後れて楽器のパイプオルガンが出現した。これは奏者が足でペダルを踏んで空気を送りながら、鍵盤を弾き、演奏する管楽器・オルガンである。こうして教会空間はこの世ならぬ光と音楽で満たされるようになった。火焔【フランボワイアン】(ただし、これは後期ゴシックの)様式の扉から薔薇窓、窮窿型天井<オジーブ>、尖塔に向けて上昇と求心の形をとっている。大聖堂内陣には整合的な柱廊。ステンド・グラス(薔薇窓・焼き絵ガラス)による採光。西アジアで開発されたされたオジーブといわれる穹リュウが重力を吸い上げる。パイプ・オルガンの発達。これらの要素を総合し、きわめて神秘的な空間が形成された。
聖なるもの、整合性とは反対の醜怪な形象。修道士たちがこの美に関心を抱くことへのシトー会の司教聖ベルナール不快感と批判。→酒井健『ゴシックとは何か』(講談社現代新書)54頁参照
(4) 建築の時期と背景
ゴシック大聖堂建築の時期は、12世紀半ばからほぼ百年戦争(1337)が起こる14世紀前半まで。
新しい農法を開発した修道士たちは農民を助修士として使役にやとい、ヨーロッパの森林を開墾する。そのためわずかの期間に森林は国土の6割から2割にの減少。農村からはじきだされた農民が都市に流入した。都市の雑多な新住民たちには都市で見知らぬ者と交流しなければならないという共存の不安があった。
(5) カトリクと異教的要素
キリスト教の世界では位階は神→人間→自然の順に下がっていく。しかし12世紀半ばの農民はまだキリスト教徒ではなく、素朴な自然民だったので、キリスト教的なヒエラルキーからいうと下位にある自然を崇拝し、森林伐採にすんなり入っていけなかった。農村は異教の温床だった。キリスト教の自然界を超える超一神にたいし、農村の異教は自然界に内在する多様な自然にそれぞれ神的なものを感じた。右:樹林模様の天井と柱
『樹林のような柱模様』
これは圧倒的に多かった農民のみならず、聖職者にも農村出身者が多かったことや、現代に比べればすぐ近くにあった森林が、教会建築に影響をあたえた証拠である。都市に流入した農民は地母神や自然を信仰の対象としていたので、都市は異教徒をかかえこむことになる。教会は新都市民の異教的な要素をたくみに取りこみながら、聖歌や典礼や装飾の中に民衆の好む合唱旋律やカーニバル、その他の本来カトリクにはない要素を次々とつけくわえていく。
(6) 聖母マリア
1054年にキリスト教、東西両教会の分裂。ローマ・カトリク教会とギリシャ正教とが各々の道を歩み始める。
ギリシャ帰りの修道士が東方起源の聖母マリア信仰を西ヨーロッパにもちこんだ。小アジア、エジプトに以前からあった修道会がフランス、イギリスにわたり、ヨーロッパではベネディクト(5世紀)、クリュニー、シトー派、フランチェスコ、ドミニコ教団、などとして展開。11世紀に生じたシトー派は12世紀に大開墾運動を展開。
『聖アンナによる聖母マリアの無原罪懐胎』
母アンナが娘のマリアに接吻しただけで娘が身ごもった。この神話が祝日となり、祭典となり、ノートルダム大聖堂の呼称となり、教会の中心に聖母像が位置し、正面入り口を飾ることになる。ノートルダム大聖堂の名はパリの寺院だけでなく、至る所でつけられ、Notre-Dame、英国ではOurLady。これが母なる大地信仰を有する都市の雑多な住民の不安を癒すものとなった。
「聖母マリアの死・被昇天・戴冠」の彫刻が各大聖堂に正面に飾られている。農村出身者の地母神信仰に支えられ、キリスト教が取りこんだ。地母神信仰と同じく森林への畏怖の念もまた大聖堂にとりいれられ、聖堂の中に深い森型の交差型天井がつくられた。左:キリスト十字架張り付け
『聖性の両極性』
キリスト教による善悪の基準以前に、民衆の間に「最後の審判」の思想がひろがっていた。自然の恐ろしさはシャルトル大聖堂の黒マリアや生け贄のキリスト像の形で持ち込まれている。
死への恐怖による共同体感覚。神に生け贄を捧げることで神の聖性を呼び込み、自分たちの存在をたちきりながら、さらに高い存在へと自分たちの存在を連ねていく。非連続な存在の死に注意をそそぐ人びとに開示される存在の連続性である。犠牲者「苦悩するキリスト」
カトリクが異教をとりいれた証拠→酒井健『ゴシックとは何か』51頁参照
各大聖堂の地下からケルト神話の神で、大地の神エスス=ケルヌノスの石像が発掘された。この神は人間の生け贄を欲し、さらに樹に吊されて供されることを望んだ。
重要:聖なるものは物を否定する運動によって、その運動のさなかに現れる。供儀では生け贄を滅ぼしているさなかに出現する。『サン・ドニ教会』
ゴシック大聖堂の建築はパリの北方にあるサン・ドニ修道院付属教会の改修工事に始まる。
右:サン・ドニ教会正面
(7) ゴシック建築の端緒
整理:民衆・農民たちが大聖堂を必要とするように、司教や国王も自分の権威づけをおこなうために大聖堂を必要とした。当時権威を必要とする立場にあったのはフランスのカペー王朝のルイ7世である。また王の権力はキリスト教の司教にまで及び、司教は都市の権力者でもあった。王と教会は全国を支配した。
サン・ドニの司教シュジェは極貧の階層から出た人物だったが、資質に恵まれていたので、高い地位に登りつめ、しかし贅沢の好きな人でもあった。宝石を愛し、世俗の貴族同様の生活をしたので、祭壇はエメラルド、サファイア、ルビー、真珠その他の宝石で飾りたて、ステンドグラスには自分の肖像を焼き付け、十字架には自分の名を刻ませた。シトー会の聖ベルナールルのような心ある司祭はこれを批判した。
他方で都市住民もまた大聖堂を自分の町の誇りとした。こうして人間の虚栄心が大聖堂を壮麗に仕立て上げ、高くそびえさせるための競争心をひきおこした。
もちろん人間の、権威への意志や虚栄心だけが大聖堂を高くそびえさせのではない。そこには、天上の神をめざす志と聖なるものとの融合、品位をたもつ審美眼、信仰があったことも事実である。ただし、ニコラ・バタイユ流にいえば、飲酒の陶酔より信仰への美的陶酔のほうを選んだともいえる。
「神は光であり、生命である」聖書ヨハネ伝
「すべてのものは神から出て、神に向かっている」パウロ「神の光」理論と光の上昇説・還帰説をうちだしたのが、偽ディオニュシオス・アレオパギタの光の神学『天上位階論』であり、サン・ドニ修道院のシュジェはゴシック建築を建てるに際して、自分の理論的基盤にしたのが、偽ディオニュシオス・アレオパギタの光の神学『天上位階論』である。
『天上位階論』によると、人間たちは神に似ている程度において光を分有している。大聖堂のステンドグラスに彩られたこの世ならぬ堂内の空間は、人間の光を神の光に引き上げるための媒体である。「我々の知性は自分に適した物質的な導きを受けることによって、天上の位階のあの非物質的な模倣と観想に昇っていくことができる」「位階とは、できるだけ神に似たものになるところの、また神から自分にあたえられた照明に応じ、自分の能力に従って神を模倣すべく上昇するところの聖なる秩序であり、知識であり、活動である」(『天上位階論』)
神学者たち・宗教人たちの抽象的、隠喩的な光と中世の大衆が信じる自然の可感的な光との間には深い溝があり、これを埋めるのがシュジェのゴシック化工事の狙いだった。
アレオパギタの天上位階論は、天上的な美をぜいたくな装飾で演出したかったサン・ドニのシュジェや他の司祭たちの格好の自己弁護になった。『初期ルネサンスの建築家アルベルティ』
「畏敬の念は陰に刺激され、その気持は心中に尊敬の気をたかめ、暗黒は崇高さを増す。
・・・・・光が多すぎては灯の力を失う」
(9) ゴシック受難の時代
イタリアのルネサンスや17世紀の古典主義時代から見るとゴシックは狂気の建築物となる。ミッシェル・フーコは『狂気の歴史』で中世は狂気と理性が同居した時代だとのべている。右:サンピエトロ教会
ルネサンス(古代ギリシャ・ローマ文明の復活)、シンメトリーの尊重。ミケランジェロからラファエロまで。後者は愛国主義的にルネサンスや古典主義様式を遵守しながら、個人的にはゴシック様式をとりいれていた。サンピエトロ寺院の屋根の装飾も無意識的のゴシック感覚による。
お奨め文献
酒井健『ゴシックとは何か』講談社現代新書
前川道郎『ゴシックということ』学芸出版社
その他多数
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