「ヨーロッパ文化」講義録 vol.1 (2000/04/19)

〜 ペテルブルグ 〜

 

<近代ロシアの成立>
ぺテルブルグの誕生
:1991年8月クーデタ事件後、革命家レーニンを記念したレニングラード市の名が昔のサンクトペテルブルグに戻った。参照:川崎浹「ペテルブルグ」/ 雑誌「世界」(1992年1月号)
 

ピョートル大帝の功績:首都の建設と制度の近代化。首都サンクト・ぺテルブルグの建設


 

左:ピョートル大帝の肖像

ピョートル大帝:ぺテルブルグは18世紀初頭、ピョートル大帝(1689〜1725)によって建設された。「ピョートルは1704年から数年をかけて、フィンランド湾に臨む荒涼とした沼地に、強引に人工都市を建設した。全国から連行された労働者のうち、10万人の死者を出したサンクト・ペテルブルグは強国スウェーデンにむけての要塞でもあり、同時に西欧に開かれた『窓』ともなった。ピョートルが外遊中に訪れたブランデンブルグの、ゾフィ公女母娘の鋭い観察によれば、ピョートル帝はたいへん知的で魅力的な人物だが、たぶんに荒っぽい専制君主であったことも周知の事実である。」

 ロシアの近代化に熱心であったために宗教に対しては冷淡で、貴族やロシア正教司祭の長老髭を禁止する。

 ピョートル・アレクセビチはヨーロッパ外遊で、配下には自由に発言させねばならぬことを学んでいた。それで次のようなことが生じた。彼が壮大な意図のもとに、膨大な出費と生け贄をそそいで建設した当時のサンクト・ぺテブルグを住民達はどのように受けとっているだろうか。

 

アネクドートとしての逸話』
 新しい首都サンクト・ペテルブルグについて民衆がどんな噂をしているか、ピョートル一世が宮廷武官の道化バラキエフに尋ねた。「陛下」とバラキエフは答えた。「民衆はこういっております。一方からいえば海、他方からいえば哀しみ、三つめは苔、四つめに○×(ああ、という嘆声)」 ピョートルは頭にきて、「身をよこたえろ」と叫び、バラキエフが言ったモーレ、ゴーレ、モーフ、オーフの単語を宣告するかのように放ちながら、何度か棍棒でバラキエフを打った。※1

 有名な道化のバラキエフが怪我をしたとか包帯をまいたという記述はどこにもないので、ピョートルはうっぷん晴らしに手心を加えて打ったのだろう。とにかく、あれだけ臣下と一緒になって浴びるように酒を呑んだ男である。悪い面もいい面も持ちあわせている。私はピョートル大帝という人物をイメージする場合、エリツィン大統領の身長を二メートルにひきのばし、大脳皮質の働きをもう少し活発にさせ、タイムトンネルで十七、八世紀の宮廷に連れ去ることにしている。※2

 ピョートル大帝の生涯は、フランスの太陽王ことルイ14世の時代と重なる。1697年、若いピョートルは250人の随員をつれてヨーロッパ巡察にでかけたが、ウィーンからイタリアまで来た際に国内で反乱が生じ、急きょ帰国せざるをえなかった。20年後の1717年にピョートル大帝はフランスを訪れるが、ルイ14世は2年前に亡くなっていて、両雄は顔を合わせずじまいだった。ともに自国での「絶対王政」の確立者だった。

 

下:エカテリーナ2世の肖像

エカテリーナ[2世]女帝エカテリーナ女帝(1729〜96)はピョートル大帝の政策を受けつぎ、ロシアを軍事、経済、領土、文化的な面でさらに大国に押しあげた。彼女はプロイセンの貴族の公女で、15歳のときに将来の皇后になるためにペテルブルグにやってきた。その後、数奇な運命をへて女帝となった。

 エカテリーナ女帝は生涯独身だったが21人の恋人を持ち、中でももっとも能力があった恋人はポチョムキンという軍人政治家で、実質的なエカテリーナの夫といってもよかった。

 文化面でいうと、エカテリーナ治世のなかば、つまり18世紀後半には、ロシア文学はフランス古典文学の模倣から脱しつつも、まだ次の19世紀ロシア文学の域には達していない。他方で、エカテリーナの少女時代から献身的で情熱的な補佐役だったダーシュコワ夫人が1785年に、「ロシア語の友のための対話」という新聞を発行して、女帝に協力をもとめた。女帝はこれを喜び、匿名でユーモラスなコラムや、こっけいな回想、側近達への風刺、注釈をつけた戯作、ついには戯曲や詩まで書くようになった。もっとも彼女が好んだのは喜劇だった。ダーシュコワ夫人は1782年に科学アカデミー総裁に任じられた。科学アカデミーの傑出した人物はロシアの大百科全書派とも言うべき学者で、1755年にモスクワ大学を創設したロモノーソフ(1711〜1785)である。

 いまや、ロシアは広大な領土と60万の軍隊でヨーロッパをおびやかす存在となった。彼女自信もエルタミージュ美術館を建て、ピョートルの娘アンナ女帝が基礎を据えたマリンスキイ・バレエ劇場を育成し、金に困っていたディドロの蔵書を全部買い上げて、フランス政府の鼻を明かした。また文武を誇る女帝が英国の大使をからかうくらいなんでもなかった。

 エカテリーナ女帝はフランスの百科全書派と書簡のやりとりをするほどに、また実際ディドロ−をペテルブルグに招くほどに、進歩的な考えの所有者だったが、在世中に生じたプガチョフの乱(1773〜75)と世界的な大事件、フランス革命(1789)の発生によって、改革から保守へと政策を変更した。プガチョフがウラル一帯の農村とコサックを中心に反乱を起こしたとき、ちょうど百科全書派のディドローがペテルブルグのエカテリーナ女帝に会い、一方的な理想論を説いていた。しかし女帝はすでに「理想」には耳をかさず、「現実」の対策に追われていた。
 

 

お奨め文献
 外川継男『ソ連邦とロシア』講談社学術文庫
アンリ・トロワイア『ピョートル大帝』『エカテリーナ女帝』中公文庫
小野理子『女帝のロシア』岩波新書
川崎浹『ロシアのユーモア』講談社選書メチエ
その他



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