運命の教訓
訣別と飛翔(序に代えて)
一九四〇年三月一〇日、ミハイル・アファナーシェヴィチ・ブルガーコフが亡くなった。
長編『巨匠とマルガリータ』の原稿は、未亡人の手によって、すでにマホガニ ーの事務机に隠されていたが、そこには、死を間近にひかえた作者が書き残した、痛切な言葉がある。
「神よ、わが神よ!夜の大地はなんと物悲しいのだろう!沼の上の靄はなんと神秘的なのだろう。この靄の中をさまよい歩いた者、死を前にして多くの苦しみを味わった者、力に余る重荷を背負ってこの大地の上を飛んだ者なら、それを知っている。疲れきった者も知っている。それを知っている者は、大地の靄も、沼も、河も、惜しみなく捨て去り、・・・心も軽く死の腕に身をゆだねる。」
作家でもあった一人の友人は、死を前にしていたブルガーコフの遺訓を忘れてはならぬものとして、私たちの前に投げだしている。「自制心を失うな、倒れるな、媚びへつらうな。自分は自分であり、おそらくは、それが最も肝心なことだ。」
葬儀には、無言の悲しみときわめてありふれた陳腐なものが同居しているが、そうした葬儀のまっさいちゅうに突然、まるであの世からのように電話が鳴り響いた。ブルガーコフの友人だったセルゲイ・エルモリンスキイが歩み寄った。スターリンの秘書官からの電話である。
「同志ブルガーコフが亡くなったというのは、本当ですか?」
「ええ、かれは亡くなりました」
電話の向こうではしばし沈黙があり、受話器は注意深くそっと置かれた。
それからは外見上まとまりのない事件がつづいたが、そうした事件の結びつきは、いまになってはじめてわかる。
三月一五日、「文学新聞」に死亡公告と写真が載った。「おおいなる才能と輝かしい筆力を誇る作家、ミハイル・ブルガーコフが死亡。」署名には団体名がただひとつ「ソ連作家同盟幹部会」とあった。死亡公告はごくふつうの、じつに公的なもので、それでいて感動的でもあり、紋切り型にならないように書かれていた。しかし当時の文学界には、ブルガーコフなどという作家は、もう、とおの昔から存在しないにひとしかった。ブルガーコフはいわゆる「非合法な」人物である、と暗黙のうちに了解されていた。作家同盟事務局の高級官僚たちは、かれに目をとめぬように努めていた。にもかかわらず、いまさら突然、かれらがこんな死亡公告を載せるとは・・・
ちょうどその日、葬儀には賢明にも欠席していたファジェーエフは[訳注:作家同盟幹部会員兼党中央委員で、数年後には作家同盟書記長になったが、党の方針との板挟みになって、五六年自殺した。]
、ブルガーコフ未亡人に、思いもよらず大胆で、妙に感情のこもった手紙を書いた。いまでは手紙の内容もよく知られ、しばしば引用されるが、中でも受けのいい一節は、『巨匠とマルガリータ』の作者が、「すべてのことを、事実あるがままに見ていたわけではない」というものである。しかし、ブルガーコフとファジェーエフというふたりの運命の、そもそもおおいに異なる行方に目をやれば、実際はすべてが正反対だったことがわかる。さもなければ、今ごろ私たちは皆『巨匠とマルガリータ』ではなく、『鉄鋼業』を読んでいただろう。しかし、この手紙でほんとうに興味深いのは、次の箇所である。「政治に係わる者も文学に係わる者も、創作活動であれ実社会であれ、自分が政治的虚偽に陥るような人間ではないことを知っています。」こうした言葉は、たとえ不興を買った作家の未亡人に差し向いで語られたものにせよ、当時の「政治に係わる人間」という立場からすれば、許しがたく危険な失策だったろう。しかし、その言葉は、全ソ連邦共産党中央委員会委員でありソ連作家同盟の指導者であるファジェーエフの公式書簡の中に残されている。つまりファジェーエフは自分がしていることをよく知りながら、公けの人として話したのでもあった。
ブルガーコフは、ノヴォヂェーヴィチ墓地のチェーホフやモスクワ芸術座の俳優たちの近くに葬られた。これもまた、通常ならきわめて用心深いはずの官僚たちが示した謎めいた大胆さといえよう。どのようにしてかれらはそう決めたのか。というのは、芸術座にもボリショイ劇場にもそんな権利はなかったし、すくなくともソ連人民芸術家ぐらいでなければ入れない、と考えられていた禁断の地に、さほど注目されていたわけでもない、一職員にすぎぬ故人の遺骸を葬りたいなどとは、実際、思いもしなかったはずだ。
(2001年4月群像社より刊行予定)