川崎浹著『「英雄」たちのロシア』岩波書店1999

目 次

序に代えて パリの「正統ロシア」1922〜73年

一章 追放と欠落
 01. 『イワンデニソビチの一日』 ソルジェニーツィン 1964年
 02. 『風はまき返す』 ブコフスキイ 1960〜91年
 03. スキャンダルの美学 リモーノフ 1980年
 04. 『犀の神話』論争 マクシーモフ 1979年

二章 「自由」をめぐる攻防
 05. ハーバード大学の講演 ソルジェニーツィン 1974年
 06. 「鯨の腹」にKGBの影 シニャフスキイ 1983〜86年
 07. 言語支配層と惑星主義 ミハイロフ 1981年
 08. レーガン大統領あて書簡 ソルジェニーツィン 1982〜91年

三章 混迷の時代
 09. ゼネストへ! ブコフスキイ 1991〜93年
 10. クーデターとショック療法 ガイダール 1991〜95年
 11. 浪漫的ヒロイズム リモーノフ 1992年
 12. 「鯨の腹」から反論 シニャフスキイ 1992年

四章 よみがえる未来
 13. 『収容所群島』 ソルジェニーツィン 1986〜93年
 14. 民族紛争の最前線で リモーノフ 1992〜93年
 15. 反エリツィン声明 マクシーモフ 1993年
 16. シベリア横断の途へ ソルジェニーツィン 1994年

五章 市民と「革命」 
 17. 革命・ファシズム・イスラエル ジリノフスキイ 1993〜97年
 18. 爆破と闇討ち リモーノフ 1993〜97年
 19. 国会で民衆の声を ソルジェニーツィン 1993〜98年
 20. 怒れる世代 アクショーノフ 1997年

 

『「英雄」たちのロシア』より序文紹介

序 パリの「正統ロシア」

 パリには亡命ロシア王国が存在するという雲をつかむような話があった。カンテラをさげて洞窟に入るような気分で、私は1971年、ロシア王国の探訪にのりだした。「洞窟」に住む者の目から見れば、私はソ連側のスパイという疑惑を背負っていたはずだ。それでもロシアの正統はソ連体制ではなく、追放された亡命世界にあるというのが私の信念だった。

 ロシア革命後、レーニンによって追放された道標派の思想家たちや、みずから亡命したメレジコフスキイ、シーリン(のちのナボコフ)、ギッピュウス、ツヴェターエワらの作家、詩人らがパリにおしよせてきた。なかでもイワン・ブーニンはロシア人初のノーベル文学賞受賞者である。それらの名をすべて記せないほどの多彩な才能が列をなしたが、第二次大戦と戦後25年をへて、かれらのほとんどがパリ郊外サンジュヌビエム・ド・ボワの広大なロシア人墓地に眠っていた。

 「バレエ・リュス」のディアギレフもニジンスキイもシャガールもストラビンスキイもシャリャーピンも雲のかなたへ去っていた。

 しかし「王国」はまだ生きていた。私は亡命王国の情報源ともいうべきロシア語新聞社「ロシア思想」を訪れて、気さくな編集長のシャホフスカヤ公爵夫人に会い、さまざまな手がかりを得た。しかしある日、編集長と秘書たちの現場を写真に収めようとすると、カード箱を探していた婦人はさりげなく顔を斜めにそらせた。

 ロシア正教会を訪れると司祭の口から、最近ソ連で2000部ばかりの聖書が刊行されたが、「おためごかしの宗教政策」にすぎないとの批判がとびだした。

 パリ大学スラブ学科のクリシー校舎で、17世紀以来の学者一族の末裔コワレフスキイ教授が「ロシア思想史」を講義し、ベルジャーエフやシェストフをとりあげていた。74歳のコワレフスキイは正教徒で、正教会に属する聖母館の一隅に書斎をもち、私は木曜ごとにそこを訪れて雑談したが、なぜか『ロリータ』の作者ナボコフもレマン湖のモントルーからときおり、聖母像で飾られた書斎を尋ねてくる。

 郊外のクラマールには、ベルジャーエフが米国の婦人から贈られて住んでいた礼拝堂付きの屋敷が保存されていて、鍵番の老人の話では、ベルジャーエフに縁のある集まりが定期的に開かれていうということだった。

 セーヌ河右岸のニューヨーク通りにロシア人の集まるクラブがあり、地下はロシア料理のレストランになっている。このクラブで作家ザイツェフの追悼講演会や「ソ連文学の現状」という報告会があったが、こうした折の司会はいつも『芸術の運命』の著者ウエイドレである。ある夕べで、講演をすませたコワレフスキイ教授が私を老婦人に紹介した。これがベルジャーエフと並んで欧米でもっとも有名な哲学者、故シェストフの次女だった。彼女は私を自宅の正餐に招待し、その際ぜひコワレフスキイ先生を同伴してほしいという。教授は道標派のベルジャーエフやフランクを愛し、「無神論者」のシェストフを好まなかったので、私はかれを誘拐するようにして自分の車で郊外の広々としたシェストフ家の屋敷に運んだ。

 そこで私はシェストフ遺稿集の編纂を手伝っていた年金生活者のポチョムキン氏と知りあったが、かれはかつて「反革命」のデニキン軍に属し、革命軍にとらわれ死刑を執行されたが、ひとり原野で拳銃をかまえた赤軍将校が、顎をしゃくって逃亡を教唆したので、一命をとりとめることができた。こうしてポチョムキン氏は数十年後にとつぜんシェストフの信奉者となり、奇妙な関心をもつ日本人とワインを飲みながら、シェストフの『叡知と啓示』を読みかわす機会をもちえたのである。かれにいわせれば、シェストフにはすべてが含まれており、あとはなにも読む必要がない、ロシア語もシェストフの文体は模範的である。

 郊外の老人ホーム「ロシア館」では、私は30年代「モンパルナスの黄金時代」をしのぶ詩人テラピアーノやオドエフツェワの夢見るような回顧談に聞きいった。オドエフツェワは亡き詩人ゲオルギイ・イワーノフの妻で、本国ではグミリョフのアクメイズム派に属し、若いときから著名な詩人だった。かれらの回想のなかのパリの文学の夕べでは、亡命詩人ホダセービチもイワーノフも、カフカもジャン・コクトーもともに国境をこえて渦巻いていた。

 私が亡命ロシアの王国で得た経験や情報もまた、いちいち挙げることができない亡命文学者や思想家の数以上に多い。だが、それらの一見まとまりのない断片をつなげる共通項があった。それは迷路に似て錯綜しているようでありながら、最後に合流する場所はひとつ、共産主義という名の「革命」である。すべては「革命」という呪文から生じた運命の無数の支流に呑みこまれていた。

 パリから帰国して知人の編集者からなにかを書くようにいわれ、私はとうぜん、「革命」の呪文から逃避した亡命者たちの過去に栄えた王国を自分の体験や印象、収集した資料から構成するはずであった。ところが私のまえに、どうしても追い払うことのできぬもう一つのhistoryが姿をあらわした。それは「革命」から逃避した亡命王国への下降線ではなく、亡命の側から「革命」本国に積極的に視線を持しつづける上昇的なエネルギーの構築である。

 

もうひとつの「亡命」サヴィンコフ=ロープシン

 パリに立つ前、私には明確な調査目標が少なくともひとつあった。20世紀初頭、セルゲイ大公をはじめ帝政ロシアの権力者をつぎつぎと倒した社会革命党のテロ組織「戦闘団」のゆくえである。指揮者だったアゼーフに敬意と友情さえ抱いていたはずの副指揮者サヴィンコフが、心ならずも敵対する者としてアゼーフとパリで切り結んだ地点はどこか。

 1909年、アゼーフは実は秘密警察と「戦闘団」の二重スパイであることが発覚、パリにのがれ、ラスパイユ並木通りのマンションに身をかくしていた。社会革命党の調査委員会は坂道のローモン街の一角で協議をひらき、党の指令を帯びたサヴィンコフら3人がアゼーフを訪れ、査問し、詰問した。顔面蒼白になって強弁するアゼーフに、サヴィンコフは宣言する。「明日12時以降については我々は責任をもたない。」つまり、あす12時すぎれば我々は個人として君に報復する、あるいは明日12時までに逃げろ、どちらともつかぬ複雑な発言である。その夜、アゼーフはパリから姿をくらました。サヴィンコフがアゼーフに逃亡の機会をあたえたという噂もながれた。(『テロリスト群像』385頁 拙訳 現代思潮社1967)

 アゼーフ事件は全欧州をゆさぶり、ひいてはロシア社会革命党の衰退をまねいた。サビンコフはアゼーフ事件の少し前から、パリで『一テロリストの回想』を書きはじめていた。これは自分の指揮下で死なせたテロリストたちへの手向けの記録である機会をあたえたという噂もながれた。アゼーフ事件はサヴィンコフ個人にも少なからぬ影響をあたえたらしく、ロマン・グーリの小説『アゼーフ』は連日モンマルトルのバーで空しさをまぎらわせるサヴィンコフの姿を浮かびあがらせている。事件後、今度はロープシンの筆名で小説『蒼ざめた馬』(=拙訳 現代思潮社1968、角川文庫1975、岩波同時代ライブラリー1990)を執筆し、これもまた大きな反響をまきおこした(ロマン・グーリ『アゼーフ』神崎昇訳 河出書房新社1960・なおその後の委細は拙論「サヴィンコフ=ロープシン論」(『蒼ざめた馬』岩波同時代ライブラリーに収録)を参照)。さらにメレジコフスキイやギッピュウスらとまじわって多くの詩を発表している(『ロープシン遺稿詩集』拙訳 白馬書房1975)。その後サヴィンコフは立ちなおり、アゼーフ事件が社会革命党に残した汚点を払拭するために戦闘団の再建をはかり、さらに動乱の時期を迎えてケレンスキイ臨時内閣の陸軍次官をつとめた。

 ボリシェビキが権力を奪取すると、サヴィンコフはドン川流域にとどまり、白軍と組んでボリシェビキと闘い、18年以降は旧社会革命党員や白軍将校、知識人らを擁して「自由祖国連合」を創設、多数の諜報員と撹乱分子をソ連内部に潜入させた。

 他方、かれはチェコのマサリックや仏大使ヌーランス、チャーチルらの英国閣僚のみならず、小村寿太郎や明石二郎らとも会い、情報や資金を得、ヴォルガ川上流で反乱をおこして一時赤軍を撤退させた。18年末コルチャーク将軍の依頼でパリ駐在の代表となり、出版局「連合」の局長として反ボリシェビキの情報活動をおこなう。

 サヴィンコフは最初は社会革命党に対立するボリシェビキの前身、社会民主党グループに属していたが、ボリシェビキの独裁的な政策に同意できず、鞍をのりかえたのである。サヴィンコフは次のことには私怨はもたぬというが、かれの姉婿である無実の白軍将校が革命の初期にボリシェビキに銃殺された個人的背景があることも事実である。

 社会民主党時代にテロの指揮者で、のちにソ連初の秘密警察チェ・カー(革命非常取締委員会)の長官となったジェルジンスキイは、レーニンに「対サヴィンコフ作戦」を提案し、その時にはすでに存在しなくなっていたロシア国内の反ボリシェビキ組織が、あたかもサヴィンコフを指導者としてひそかに招いているかのような計画をたてた。秘密警察はレーニンのいう「負けられぬ作戦」を極秘におしすすめ、パリのサヴィンコフをおびきだし、一九二四年八月、ポーランドとソ連の国境で逮捕した。サヴィンコフは遺書を妹婿に残し、なかば覚悟しての潜入だったが、モスクワのルビャンカ監獄に収容されてのち、階段から投身自殺したとソ連側は声明した。だが事実は刑吏につき落とされて死んだのである、とソルジェニーツィンは『収容所群島』で、当時ルビャンカにいた証人の言を記している。しかし、さらにひっくり返して、実際にサヴィンコフは自殺を選んだのではなかったか、という私の推定も残る。

 戦後のソ連時代、アルダマツキイという作家は国家保安委員会カー・ゲー・ベーと親しい関係にあったらしく、秘密資料を縦横に駆使して小説『報復』をあらわし(アルダマツキイ『報復』拙訳 白馬書房1969)、秘密警察が「狡猾な」サヴィンコフをいかに巧みに誘いだし、罠にかけたかを誇らしげにのべているが、語るに落ちたというべきだろう。「狡猾な」人物を罠にかけるには、幾層倍もの狡知をしぼり、無数の陥し穴を掘らねばならぬからである。それでもアルダマツキイが資料を忠実にうつしとらざるをえなかった部分もある。ソ連への潜入中、国境のアジトで銃をかまえた赤軍兵士たちがとつぜん食堂に姿をあらわしたとき、サヴィンコフは冷静にこう応じたという。「おみごと!朝食は続けさせてもらえるでしょうな」

 戦後、フランスの作家カミュは、サヴィンコフの『テロリスト群像』や『蒼ざめた馬』の、言論界のにぎやかな主題となった「手段と目的」「正義と殺人」など二律背反に悩むテロリストたちを、『反抗的人間』の一節「心やさしきテロリスト」や、戯曲『正義の人びと』でとりあげ、いわゆる実存的な主題をさししめした。

 これらの登場人物のなかでも、とりわけ、セルゲイ大公の馬車に子供が同乗していたために爆弾を投げることを中止し、一部の同志から決断力を疑われ、のちに大公ひとりのときだけを狙って自らも死を選んで目的をはたした、実在のテロリスト、詩人カリャーエフのイメージが鮮やかによみがえる。私はパリのサヴィンコフ=ロープシンの軌跡をたどることで、かれらに追悼の花束を捧げることにした。

 私はセーヌ川右岸のラ・フォンテーヌ街を訪れ、夕陽を逆光にして影のようにそびえたつ黒い建物を仰ぎみた。この一室でサヴィンコフはロープシンに変身して『蒼ざめた馬』『黒馬を見たり』や数々の詩に死の影を刻印した。私にはパリの晩夏の、あの街角にただよう憂愁の気配と、テロリストたちがカタカタと音をたてる手製の爆弾をかかえて徘徊したペテルブルグのフォンタンカ運河のほとり、白夜に沈むひと気のない石畳の光景が重なって、ひとつの幻想風景が出現し、これこそが『蒼ざめた馬』にふさわしいイメージのように思えた。

 だが70年代のパリでは、それにつづく、さらに詩と政治における幻想と現実の層が深められることになる。

 

ディシデントとサミズダート

 サヴィンコフ=ロープシンはテロリストであり、政治家であり、反共闘士であり、思想家であり、作家であり、詩人であった、と私は言おうとしているのではない。激変する社会状況下で人は政治に政治的にかかわり、文学に文学的にかかわるのではなく、状況にたいして人間的に反応するとき、社会的、政治的にならざるをえないのであり、敏感に反応する人間的な資質のゆえに文学的たらざるをえない。本来は文学の資質のまさる者、また両方の資質をかねそなえる者が、状況に応じて社会活動家や文明評論家となり作家ともなる。文学と政治の機能は原理的に離れているものでありながら、このように近接し、交錯する時代というものがある。この交錯する一点に位置せざるをえないのが知識人である。

 「亡命(エミグレ)」といえば暗い逃避のイメージがつきまとう。実際、亡命後に恵まれぬ生活をすごした者たちの苦労話はたえない。だが「亡命」の側から批判的な視線を本国にさしむける人びとがふえると、「亡命」と「本国」は平等な関係に立ち、「祖国」から被追放者を見おろす差別語といえなくもない「亡命エミグレ」は、むしろ「住移(イミグレーション)」の色合いをつよめ、亡命者のかわりに移住者と名づけたほうが適切になる。

 私がパリに滞在した1971年9月から73年3月にかけては、「亡命」が「移住」にかわりつつある年だった。というのはソ連の実状に通じた亡命者たちが反体制活動と連動して、本国のできごとを逐一報告し、批判していたからである。かれらはすでに「流刑地」にいる一方的な被追放者ではなかった。とりわけ「ロシア思想」紙の編集長が誇らしげに、ウラジミル・ブコフスキイの裁判事件についてのスクープを語ってくれたとき、またソルボンヌ大学スラブ学科の講義科目にサミズダート「地下文学」なる活字を見いだしたとき、私はそれをつよく感じた。

 サミズダートは最大の関心事となっていた。「地下文学」の講師はソ連国境で「二級廃疾者」を演じながら辛うじて出国してきた前衛詩人、作家、薬学博士のオドノポーゾフである。かれはアルカージイ・ライキンと推定される著者の『新時代の混迷』という短編をテキストに使用した。レーニンにそっくりのチモターノフという人物がレーニン廟にしのびこみ、棺のなかの遺体の首を盗んで、収集で名を知られる米国のロックフェラー財団への売却をはかり、このために一大パニックがもちあがる。レーニン廟の遺体がわりにレーニンに酷似した人物狩りがおこなわれ、チモターノフ自身がこの網にひっかかり、レーニンの棺によこたわることになる、これはいわばクレムリンという祭壇の聖性冒涜の物語である。神聖を冒涜するために地口や駄洒落やジャルゴン、言葉の掛け合わせを意識的に使用した小説の内容や、講師オドノポーゾフのソ連国内での反体制活動と、このユニークな人物については、すでに拙著『ソ連の地下文学』(朝日選書・朝日新聞社1976)で詳しくふれた。

 かれ自身、前触れなしにいきなり訪れてきたとき、パリで洗練された若きレーニンが眼鏡をかけて復活したのか、と私は一瞬わが目を疑ったほどである。かれはパリでも時折尾行がついていた。私があるとき冗談なかばに、しかしまじめな顔をして、「ぼくはソ連のKGBの手先ではないよ」というと、「いやスパイでもかまわない。なんでも知るがいいさ。なんでも教えてやるよ」と本気で応じた。

 かれはソ連を脱出した直後英国へいき、シニャフスキイ・ダニエル裁判のときは当地のジャーナリズムで擁護キャンペーンを張った。

 いまパリのディシデントというとき、サヴィンコフにくわて、さらにオドノポーゾフの存在が重ならざるをえない。スケールの違いはあれ、サヴィンコフが反体制活動家(ディシデント)の元祖だとすれば、オドノポーゾフもいわゆる亡命「第三の波」の先駈けだったといえる。私が帰国してわずか数カ月後の1973年8月以来、シニャフスキイ、マクシーモフ、ソルジェニーツィン、ジノビエフら多くの反体制活知識人がオドノポーゾフと同じ軌跡をたどりながら出国してきたからである。

 したがって私の『ソ連の地下文学』(75年秋)の射程には、パリで刊行されたばかりの「コンチネント」誌や、モスクワ・パリで編集されて74年12月にでた地下文集『岩盤の下から』までしか入っていない。

 その後80年代に「コンチネント」誌からの派遣や、国際会議の報告などで、ジノビエフ、とくにネクラーソフ、エドアルド・クズネツォーフらが一度ならず来日し、またディシデントの事情にくわしいフランスのスラビスト、ジョルジュ・ニヴァらとの出会いをかさね、ディシデント現象はさらに私たちに身近な問題となった。しかも10年後のペレストロイカの前後にディシデントと本国との関係は劇的な変化をとげるにいたった。

 だが私自身はモスクワ滞在中の84年3月末に、ゴルバチョフが党書記長に就任し、改革の新風が吹きはじめたことから、ソ連国内のドラスチックな歴史劇に関心をいだくようになり、もっぱら市民の立場からソ連邦解体のプロセスをたどり、「ソ連人」が「ロシア人」に変わっていくさまに注目した。旧ソ連の各地を訪れ、ロシア系、非ロシア系を問わず多数の住民に接し、他方でサハロフ博士やルイバコフ、コローチチらのペレストロイカの旗手たちとのインタビューをつづけてきた(拙著『いまソ連の知識人は何を考えているか』朝日新聞社1990/拙著『権力とユートピア』岩波同時代ライブラリー1995)が、ふと後ろをふりむくとソ連「本国」と「亡命」のあいだの国境が消えていた。

 

「欠落」を問う

 ソ連帝国の崩壊は共産主義の破局であるのみならず、ギリシャ時代から理念として意識されたユートピア思想の実現が実際には不可能であることを示した。

 いうまでもなく20世紀は大量殺戮と強制収容所の時代であり、ソ連も二つの現象から逃れることはできず、この世紀の特質に忠実に加担した。それを「共産主義と亡命」として読みかえることもできる。イデオロギーの実践が革命を呼びこみ、革命は大量の粛清と収容所と追放をひきおこした。こうしてユートピアがアンチユートピアを生じさせたように、独裁権力はまた必然的に反体制活動を分泌した。時代を踏み絵にして知識人が自己を問う深層がここにあらわれる。いいかえれば知識人が自己を問うことでいかに時代にかかわらねばならぬか、態度決定をせまられる舞台が登場する。

 分泌された反体制知識人と収容所はいわばソ連体制の欠落部分である。欠落と影をとおして全体像にせまる方法は、文学ではすでにドストエフスキイによって証明ずみである。『白痴』のムイシュキン公爵を例にとると、かれはスイスの山腹にある精神病院から下界におりてきた「脳の弱い」頼りない青年である。しかし、非在の世界からよく見透すことのできる特製の眼鏡を借りてきたかのように、日常世界のなかの真実と虚偽を見わける特技をもっている。にもかかわらず、この非在と存在の皮膜の間で危うく保たれている「まれ人」の資質と眼差しを、心理的な発育不全による幼児性に帰してしまうと、ドストエフスキイが二次元の心理をこえて三次元の精神をあつかい、欠落や罪という闇によって生命の光を把握しようとした意味が見えてこない。人間の闇を探りあてた偉大なフロイドではあるが、そのフロイドすらプラトンやトルストイの理想を引き合いにだしながら、それと対照的に、欠落(罪)を通過して立ち直るドストエフスキイの人物を倫理的な弱さとして批判した(高橋義孝訳フロイド「ドストエフスキイと父親殺し」日本教文社・フロイド選集7『芸術論』所収)

 スターリン時代、おおくのソ連人は、自分の知人、友人、親子でも、逮捕され追放される者にはそれなりの欠落(罪)と理由があるからだと自らにいい聞かせてきた。欠落部分としてのディシデントの間でさえ、一歩奥にふみこんでさらなる欠落部分を排除する傾向がある。たとえばシャハレービチは、昨日まで同志として共に活動してきたディシデントが「いともかんたんに」亡命するのは、かれらがユダヤ系だからといい、伝統的な民族主義的術語「ロシア嫌い(ルソフォーブ)」をかれらの頭にかぶせる。

 しかし作家のアクショーノフが最新作『甘美な新形式』でいっているように、4分の1しかユダヤ人の血が流れていないロシア人は・・・いやたとえ2分の1であろうと・・・すでに気質も思考の枠組もロシア人なのである。米国に移住したユダヤ系ロシア人は、ニューヨークで出迎える別種のユダヤ人にひどく戸惑うという場面が『甘美な新形式』(1997)にある。さまざまなユダヤ人のなかには「戦闘団」のアゼーフのように背教者ユダとしてあつかわれる例もあるが、パリ大学で「サミズダート」の授業をもっていたナウム・オドノポーゾフも、キエフ出身の作家ビクトル・ネクラーソフも「ロシア人のなかのロシア人」という印象を私にあたえた。ネクラーソフは亡命後も本国でながいあいだ愛された作家である。

 イスラエル本国では中東ユダヤ人、ロシア系ユダヤ人、宗教系ユダヤ人の三群が融合せず、独立して自分たちの政治的代表をたてているが、当然ながらこの事実は、血族よりも文化が人間の資質の形成に重きをなしていることを示している。

 ドイツ人を祖先にもつ亡命ロシア人のウエイドレは『ロシア文化の運命』で、ロシアはフランス、ドイツなど西欧の血を混入することで、より本来のロシアに近づいたという逆説をのべている(山本俊朗訳ウエイドレ『ロシア文化の運命』冬樹社1972/原題はLa Russie,absente et presente,Paris,1949)が、それをいうなら、さらにイスラエルをくわえることができる。ユダヤ人は生活適応能力にたけているので、ソ連時代にかれらの医学部進学は規制され、ペレストロイカになっても民族主義グループ「パーミャチ」が研究職や文化界のユダヤ人比率の計算にあけくれたことがある。だが「ズナーミャ」誌の評論家ナタリア・イワーノワは、そうした差別と憎悪のエネルギーをむしろ、すぐれた博士論文を書くことにむけべきだと反撃する(拙著『いまソ連の知識人は何を考えているか』167頁・朝日新聞社1990)

 革命にしろ反体制活動にしろ、ユダヤ系ロシア人が他の民族とともに多く参加したのは、かれらが時代の変革に敏感なアンテナを張りめぐらせていたからであり、一般にかれらはロシアを眠りの沼から国際舞台にひきあげる役割をはたしてきた。かれらは体をはってロシアの真実を追い、ロシアを救おうとした真のロシア人である。かれらが民族的な血の絆をあらわにするシオニストでないかぎり、私には反体制知識人のだれがユダヤ系で、だれがアルメニア人であるかなど、ほとんど関心がない。

 「本国」と「亡命」のあいだの国境が消え、共産主義体制の「本国」が存在しなくなると、他方、「亡命」側のテンションも激減し、それはとりわけ亡命者の本拠だった「コンチネント」誌の講読数に反映した。編集長が変わって、編集部は方針を新たにし、パリからモスクワへ帰国して再出発することになった。20年前に『ソ連の地下文学』でロシアの欠落部分をうめた私は、その後ペレストロイカの混迷に足をとられてきたが、国境の消失とともに、20数年間講読しつづけた「コンチネント」誌の変貌に他人ごとならぬ関心をいだいている自分に気づいた。それで私は前の著書で書かれなかった、その後の空白をうめることを自分の義務とみなした。ましてや本国のユダヤ系もふくめたロシア人たちがペレストロイカの熱狂期をすごしたあと、かつての反体制知識人に冷淡な態度をとるのを目にすると(Феликс Светов:Вольному Воля:Литературная газета.1990.5.23)、判官びいきの私としては「欠落」をとおさずして真実の像の認識はありえないという持論をなお強くおしすすめざるをえない。

 反体制知識人はペレストロイカまでの時代を国外でどのように過ごし、ゴルバチョフの登場後どのように反応し、宙吊りにされた混迷のロシアとどのように交錯したのか。ここに「本国」と「亡命」の二つのカメラ・アイからとらえられるロシア、そして、はや神通力をうしなったとはいえ「文学」という名の感性をもつ知識人たちの姿が浮かびあがる。かれらの強力や、時代にゆさぶられてかれらが転落する陥穽や、相打ちや疲弊や転回や帰還などの運命をたどりながら、かれらはかれらにしか記せぬユニークな記録を欠落の世紀にとどめることになった。

 

 ここ数年、ひとつの主題に目をこらしているうちに、最初の予定とは異なる座標ができあがった。人びとによって無意識のうちに片隅に転がされていた断片が、主軸となる法則のもとに徐々に膨張し、存在を主張しはじめ、こちらの意図をこえ、人びとの驚きをしりめに、本書の冒頭に躍りでてきたた。こうして第一章にソルジェニーツィンが登場する。

 「なぜディシデントは今日忘れ去られているのか」というスベトフの論文の指摘と同じように、私自身、モスクワでロシア人たちがディシデントに対し、一時の熱い対応から反動的に冷たくなっていく状況に接した。


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